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続けることのエネルギー

もう1週間ちかく妻とは会話をしていない。

まぁ、よくある夫婦喧嘩で、しかも悪いのはわたしのほうなのだが、「ごめん」のひとことをいうきっかけを失してしまい妻はますます激昂して、荒れまくった。

とっくに封印していたはずのわたしの過去の行状がつぎつぎとあぶりだされ、そしていずれもわたしに過失があるものばかりなので、次第に暗鬱な世界へと落ち込んでいった。

和戦交渉というのは、だから戦うことよりエネルギーと勇気を要するのである。








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# by hidyh3 | 2018-06-15 16:33 | Comments(0)

博多のこと

会社の同期が博多に単身赴任していて、友人付き合いの苦手なわたしにはめずらしくいまだに連絡をとり合っている。

同期とはいっても、わたしは2歳年長なので、かれはまだ定年までは2年ある。

東京の自宅にいる家族からは「帰ってくるな」といわれているようで、支給される「帰宅手当」もほとんど貯蓄しているそうだ。

東京からわざわざ1泊2日で行ってきた。現地での飲食費はすべてかれが支払ってくれた。有名なもつ鍋の店にいき、したたかに飲み、推奨の博多ラーメンでしめて、爆睡した。

贅沢な旅だった。






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# by hidyh3 | 2018-06-10 09:50 | Comments(0)

遠い道のり、あるいは終わりなき旅路

会社にいかなくなって1週間がたった。

昨年は精神を病んで2月半ばより6月半ばまで休職していたから、ちょうどこの季節の長期自宅ひきこもりを直近に経験しているし、それ以前にも数回の休職経験があるので、無為のまま自宅にいることについてはベテランなのだが、今回は少しばかり感覚がことなる。

健康保険や年金の切り替え作業という公的機関との係わりが煩雑という事実もあるが、なにより決定的なのは、もどる職場がなく、あたらしい仕事を探さねばならないという現実である。

仕事を探してくれるコンサルタントと先日じっくりと面談し、帰宅して職探しに必須の書類作成にかなりの時間と労力を費やしてグッタリしてしまった。ほぼ1日を要したそれらの作業と疲労感は、じつはこれから始まる「就活」という名の旅への、まだ単なる支度の緒についただけで、疾風怒濤の長い旅は始まってすらいないのだった。

コンサルタントからいわれたのは、とにかく日々頻繁に求人サイトへ目をとおし、またハローワークを訪れることも怠りなく、提出する書類は相手企業に合わせて都度かえなければならない、とのこと。

平均で、わたしのような立場のものは40~50社ほどへ書類を送付する。それでも面接までこぎつけられるのはたかだか10社前後、そして内定がでるのは多くて2社程度なのだそうである。

わたしが立っている場所というのは、じつはひどく脆弱でなにも約束されていない危うい点、ということだ。

とはいえ、人生成り行き、なるようにしかならない。

そう思い込もうとしているわが身の軽薄さに、これまたウンザリするのだった。











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# by hidyh3 | 2018-05-24 11:50 | Comments(2)

間奏曲 (インテルメッツォ)

ブラームスは晩年、おおきな曲は書かずに、かれの原点ともいえるピアノの小品たくさん創った。
とりわけ「間奏曲」に固執し、そして傑作を生みだした。

劇音楽において「間奏曲」というのは次の幕への前奏曲でもあるので、しばしば間奏曲=前奏曲となる。

今日はわたしの最終出社日であったので、明日から休みなのだが、つぎの仕事をさがさねばならないからボンヤリともしていられない。

しばらくのあいだは「間奏曲」だけれど、それはまた次のステージへの前奏曲でもある。

帰宅して、何よりもまずベートープェンの第3交響曲を聴いた。

すごい曲だ。今さらながら。






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# by hidyh3 | 2018-05-16 18:06 | Comments(0)

平和の享受


巷間よくいわれることに「政治と宗教の話しはするな」というのがある。


外国ならば政治はともかく、宗教はまちがいなく血を見るだろう。だが、反政府勢力とのあいだで悲惨な戦いをしている国々が今日現在もあることを思えば、政治を話題とするのも禁忌であるか。


ひるがえってわが日本。


わたしには一般の日本人は「政治」と「宗教」を話題にしたくてもできない― したくても足るだけの知識と経験がない、と考える。「宗教」に関してはいまさら言うまでもないだろう。なんども書いているように、歴史的に日本人は宗教に関する感度が極端に希薄である。


「平家物語」のなかで那須与一が扇の的を射る前に


  「南無八幡大菩薩、那須の湯前大明神」


と神と仏に祈るのである。千年近くも前に、すでにそういう混合が当たり前だったわけだ。


昨年の暮れ、JR車中で女子高校生たちが「初詣で」について会話しているのを耳にした。どうやら何処へいこうか、ということが話題のようだった。


ひとりがいう、


  「でもさぁ、○○神社って仏教じゃない!あたし的には△□寺のほうがいいんだけど…」


それを受けて、


  「わたしはどっちでも・・・」


親の顔が見てみたい、などとわたしはまったく思わなかった。ああ、やっぱりな、と確認しただけだ。


かつて数学者の岡潔は著書のなかで、宗教は、ある・ない、の問題ではなく、要る・要らない、の問題だ、と的を射抜いた本質を述べた。まさしくそのとおりで、たとえば無神論者は「無神論」という宗教に帰依しているわけで、ほんとうに神の存在を信じず、また必要としない者は、もとよりそんなことなど考えない。


わたしが多くの日本人の宗教観を許せないのは、宗教に対してだらしないところである。不見識なところである。日本人が得意なご都合主義のコラージュだからである。


よく個人事業主の事務所などへいくと、壁に神棚が祀られていたり、破魔矢とか神札が飾りもののように置かれてあるのを目にする。そして多くの場合、そういうひとの家には仏壇があって故人の位牌が置かれている。戒名といい、俗名と称する。


何なんだ、いったい。


坂口安吾は安土桃山時代から徳川幕府初期にはるばるやって来た宣教師たちのことを「イノチガケ」という作品に書いた。そのなかで禅僧がキリスト教に改宗した事実が語られるが、たいへん象徴的であり、そして滑稽だ。


公開処刑で殉教する宣教師たちに感動し、弾圧するほど信者になるものが増えたというのも皮肉だが、この精神構造はいかにも安易であり、禅僧たちと変わらず、そしてそれはいまに至るまで続いているのである。


政治と宗教が語れない国民。


それは精神が未発達である証拠だが、べつの方向から見ると、日本は世界でも稀な、とても平和でのどかな国だということもできる。


いいのか、そうでないのか。








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# by hidyh3 | 2018-05-11 10:59 | Comments(2)

直感のチカラ

小説家の宮本輝氏は、作品の取材のために舞台となる地を訪れた際、仔細にその地を巡ることはほとんどなく、なんら特別ではない風景、たとえば早朝の路地裏の石畳の上にポリバケツがころがっていて、カラスどもがついばんでいる、というような景色で小説中に登場させるその地の特徴やイメージを得てしまい、ほんらいなら案内するものが見てほしい名所だとか旧跡には興味を持たない、そう自身で書いている。

偉大な作家でもなんでもないわたしだが、かれのこの感覚はとても理解できるので、その地における「急所」のようなものを勝手に感得してしまえば、巷間知れわたった名所などはむしろその地の印象をおとしめてしまうことも少なくない。この場合その地の「急所」となるための原則とか基準があるわけではなく、ひとえにわたしの感覚とか印象にもとづく勝手なものなので、ほかの人に説明はできても同感してもらえる保証はないし、またその必要もないだろう。

 「〇〇へ行ってきた」

 「じゃあ△△へは行ったでしょぅ?あそこへ行かなきゃ〇〇の真髄は判らないから!」

たいていの場合、そういう真髄にふれるような名所・旧跡にいったことがないので、あるいは行ってもわたしの記憶に刻み込まれないので、わたしは曖昧に微笑むだけだ。

へそまがり、独りよがり、独善家、自己中心、まぁさまざまに罵倒されてきたが、しかたがない。わたしの心に焼き付いたふとした景色は、その地ならではの強烈なメッセージでわたしを叩きのめしたから。



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ここがタヒチでも、石垣でも、ヌーベル・カレドニーでも、どうでもいいことだ。

先日のわたしは、まがいようもなくこの景色にとらわれ、時間を忘れていたという事実があるだけだ。














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# by hidyh3 | 2018-04-30 08:51 | Comments(2)

スケルツォ

わたしは評論家でもなく、ましてや音楽学者でもないから正確なことはいえないが、スケルツォという名の楽曲はベートーヴェンが創ったといってもあながち間違っているとはいえないだろう。

かれ以前にもスケルツォは存在した。だが、そんないい方は、徳川の前にも幕府はあったというのと同じで、まったく間違ってはいないが、核心を突いてはいない。

ベートーヴェンは考えに考えたあげく、もうここにはスケルツォしかない、そうはっきりと自覚して書いた最初の作曲家である。

かれの交響曲第2番3楽章は「スケルツォ」と名づけられてはいるが、そしてたしかにメヌエットでは全くないが、「エロイカ」のスケルツォとくらべたら0歳と50歳くらい違う。いやいや、そんな差ではない。3Dの映画と紙芝居といってもまだ足りない。


時代の先進性に触れて自分を励ましたいとき、だからわたしはかならず「エロイカ」の第3楽章を聴くのだ。







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# by hidyh3 | 2018-04-24 18:09 | Comments(0)

Camille Claudel

ここ2週間ほどフランス語のテキストでCamille Claudelについて学んでいる…などと書くと、まるで明治時代の作家たちが覚えたての西洋の知識をドーダといわんばかりにひけらかしているのに似ているので恥ずかしいのだが、だからといってカミーユ・クローデルといいかえてもたいして変わらない気がする。

クローデル、という名前を聞くと、わたしはポール・クローデルを思いうかべる。小林秀雄の初期の評論のなかにポール・クローデルがしばしば登場するからで、じつのところポール・クローデルの書いたものをわたしは読んだことがない。彼が作家であると同時に外交官でもあったことを、知識として知っているが、そんなことは知らないのとたいした差がない。

Camille Claudeはポール・クローデルの姉であり、ロダンの恋人でもあった美人の彫刻家である。

彼女の写真が残っていて、じつに美しい。のちに精神を病み、晩年は病院で孤独に死ぬのだが、その予兆とでもいう危うさが美貌の向うに見える気がする。おそらく自分が不幸だなどと彼女自身は思わなかっただろうし、そしてわたしもCamilleが不幸だったとは思わない。




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美しく生まれ、ロダンの恋人として生き、見事な彫刻をのこした。それだけで充分に幸せだから。

「La Valse」という題名の作品がある。ラヴェルのワルツが聴こえてくる。







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# by hidyh3 | 2018-04-23 17:25 | Comments(0)

就活、のようなもの…

先日、再就職支援をしてくれる企業へ行ってきた。


行くまではたいした期待もせず、おそらくは履歴書、職務経歴書の書きかたや、面接でのセオリーなどをひととおり教えて、そのうえで定期的に求人のある企業を紹介する程度だろう、そう思っていた。


ずいぶん前に親しくしている人事のひとからそのようなことを聞かされたことも、そんな予断の基になっていたのだろう。


先方のオフィスは霞が関にあり、たいへん便利な立地であった。


住所表示は「霞が関」であるが、最寄り駅でいうと都営三田線の内幸町、JRの新橋、東京メトロの虎ノ門か霞ヶ関駅で、都営三田線沿線に暮らすわたしにとっては、これから何回も自宅からかようことになるのでたいへんにありがたい条件だった。さらにいうなら、大学生のときの4年間、学費稼ぎのために月曜日から土曜日の18時から23時までを銀座8丁目にある和菓子屋で働いており、その際に乗り降りしていたのが内幸町駅なのだった。


だから、ちょっと大げさにいうなら、このあたりはわたしの青春のかなりのページをいろどっているので、そういう場所で職探しができるのも、きっとなにかの縁なのだなぁ、と感じ入った。


そこのコンサルタントというのは、わたしと会話することを通して、わたしという人間の性格、いくつかのスキルとか強み・弱みというものを見てとって、それらを踏まえていろいろとアドバイスをしてくれたうえに、今のわたしに最適と思われる就職先を開拓してくれるのだった。


つまり「待ち」の求人ではなく「攻め」の求職なのである。


しかもそういうカウンセリングを受けていること自体が公的な「求職活動」と認定されるので失業保険を受給する条件を満たすことにもなる。こんかいの退職は会社都合によるものゆえ、これから2年間はその支援会社の使用料金も会社が負担する。いったい幾らかかるのか判らないが、そこまでの支援サービスを受けるとなればけっして安価ではないだろう。それでも正社員としてわたしを雇うことによるコスト負担に比べれば、会社にとってはコスト減になるのだろうが。


いずれにしてもわたしの人生の第2幕はこれから開くのだから、できるだけ万全のコンディションで臨みたいものである。


とはいっても、人生はなるようにしかならないから、あまり過度な期待や希望はもたずに、適度な緩みをもってやっていこうと自戒するのだった。









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# by hidyh3 | 2018-04-18 15:01 | Comments(0)

遅延

当初の計画では、わたしの最終出社日は4月19日だった。

だれにも感づかれることなく静かに消えていく「D-day」のイメージトレーニングを幾度もくりかえし、理想形にちかづいてきたので、あとは実行あるのみというところだったのだが、考えてもいなかった事態が出来した。

有休が足りなかったのである!

どういうことかというと、一般には年度初めの4月1日に20日の有休が付与される。
わたしもそれを念頭において逆算をし、4月16日というという日が「D-day」になったのだった。

4月にはいってすぐにわたしは休む申請をパソコンでおこなった。

会社の日々の勤怠や休暇の取得、あるいは通勤定期の申請までもいまはすべて個人のパソコンである。こういう時代だからそれはまったく構わないのだが、決められたとおりに手続きをおこなって最後に「この申請は無効です」という、なんともこちらの気持ちを萎えされる無機質なコメントが出てくるのには憤りを感じざるをえない。

わたしの場合は、昨年度(2017年4月1日から2018年3月31日)までの出勤日数が80%を下回っているので、与えられる有給休暇は10日なのだった。

わたしも、かつては平均的な日本人サラリーマンだったので、有休を年度内に使い尽くすという離れわざは使わなかったからこういう規定があることすら全く知らなかった。それを知った日は朝から茫漠となり、なにもがどうでもよくなってしまった。

完全に無為の一日の長さといったら、ほとんど絶望と隣り合わせである。

やれやれ、そういう次第で、わたしのD-dayは、5月16日に改まった。

さいわい連休などがあるから当初からの増分は1週間と3日ていどなのだが、でもひどく面倒である。なにしろ、定時に帰宅するためだけのために出社するのだから。いまどき流行らないガソリン車でいえば、夕方の出発のためにあさ早くからアイドリングをし続け、ときおり無意味に空ぶかしするような、だれも喜ばない時間を過ごすのである。













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# by hidyh3 | 2018-04-15 08:01 | Comments(0)

退き際

これはマナーというよりも今どきの習慣なのかもしれないが、よく会社を辞めるとき組織に属する人たちへ一斉メールで「退社のごあいさつ」を送る者がいる。わたしも今までにずいぶんたくさんの「ごあいさつ」メールを受け取ったのだが、たいていはまったく係わりをもったことのないひとからの「ごあいさつ」であった。


たいていこのてのメールは、


 「一斉メールにて失礼します。○○部の△△です」


という書き出しで始まる。


以前は知らないひとからのものでも儀礼的に読んでいたのだが、一方的な回顧談のあとに、みなさまのご活躍をお祈り申し上げます、という紋切り型の文章で締めくくられるのだった。


親しいひとだったらそれ以前に個人的なあいさつを交わし終えているはずなので、だからこの手の一斉メールはほぼ99%儀礼的と考えていいのだろう。送られてくるメール文があまりに酷似しているので、あるときから読むのがバカバカしくなり、いっさい読まずに削除するようになった。


以前にも書いたことがあるが、わたしは実がないのに単なる習慣だとか風習などで取りおこなわれている儀礼的なものが大嫌いなので、こちらからそういう行為をすることは100%なく、されるのにも甚だしい苦痛を感じる。


そんなもののひとつに葬式があって、わたしの大切な母が死んだときも、だから葬式はしなかった。その代りに母の遺体の横でベルリオーズやフォーレのレクイエムを流しながら夜通し酒を飲んでいた。翌日になって妻とわたしの妹夫婦、そしていつも母を気遣ってくれた叔母(母の妹)5人で火葬場にいき、骨壺に収めたあと母の家の近くにある和食店にいき遺影とともに食事をして終わり。


母をいちばん慕っていた者だけの、あまりにささやかな送別だったが、それでよかったと思っている。


実をいうと母は「献体」の登録をしていたのだが、ずいぶんまえに南木桂士氏の「医学生」という小説を読み、題名どおり医学生たちの解剖実習のリアルな描写に接して、母にそんな扱いをされたくなかったので母が死んだとき献体はわたしの意思としてことわった。


そのかわりにわたし自身を献体登録した。だからわたしが上手に死ねれば葬式は不要なわけで、自宅に骨となったわたしが帰るのは23年後だそうである。


とまぁそんな調子で、しきたりを尊ぶひとからは叱責をうけるだろうが、実のともなわない単なる習慣は、繰り返しになるが、わたしはやらない。


ヨーロッパなどでは古くから伝わる行事をたいせつに、あるときは義務のように続けているが、わたしはそれは納得できるのである。何故なら、おおくの伝統行事の基本には宗教的なものが必ずあって、その通奏低音のような感覚は強弱の差こそあれ、いまでも存在する。そして地続きで国と国、民族と民族が接しているかの地においては、みずからの民族意識、国家意識を自身が確認し他国にたいして誇示し続けなければならないからである。クリスマスというのは、だからケーキを食べるためにあるのではない。


会社を辞めるごあいさつメールがずいぶん変奏されてしまった。もとに戻す。


4月の半ばがわたしの最後の出社日になるのだが、わたしはマッカーサーの言葉を実践しようと企んでいる。かの「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」を文字どおりに実行するのだ。


また脱線してしまうが、マッカーサーの言葉をあなたはどう解釈しているだろう?この名ゼリフを何十年もわたしは理解できずにいた。数年前、会社で昼食を摂っているとき突然に氷解したのだった。


兵士にとって「死」とは名誉なのである。


たとえばアメリカ。いまでも海外の戦いで斃れた兵士が無言の帰国をしたときには、その棺は星条旗におおわれ、迎える側の兵士たちは最大級の礼を棺にささげるのを報道などで見たひとも多いだろう。

あるいは大英帝国時代のイギリス海軍では将校・兵士たちが見守るなか、棺は礼砲とともに海へと還される。


「名誉の戦死」という表現があるように、日本においても兵士にとって戦死とは誉れであった。してみると「老兵」というのは兵士としての本分を全うできなかった生ける屍ということになる。あるいは武運を持ちえなかった腰抜けということになる。そういう者へ兵士にとって至高の誇りである「死」を与えてはならない。ひと知れず、しずかに去っていくほかはない。連合国軍最高司令官であった老マッカーサーは、だから消え去るほかなかったのである。


わたしの最後の出社日、いつもどおり早朝に席へ着き、いつもどおりPCを眺め、いつもどおりスーパーで買って来た弁当を食べ、時間がきたらいつものように「じゃ、お先に」と静かに言って事務所を後にする。なにしろ5ヵ月で有休を使い果たしてしまったくらいだから翌日からわたしが事務所に来なくてもだれも怪しまない。また休んでいるのか、あの弱虫め。


月末になると人事部から「入退者のお知らせ」という全社員宛てのメールが届く。このメールはたいていの人間が見る。好奇心からである。そこでやっとわたしが退職したことを多くのひとが知るのである。


非常識かもしれない。大人げないかもしれない。単なる自己陶酔なのかもしれない。


でも、いいのだ。35年のあいだ戦い、精神を病み、憐れまれた老兵は、ただ消え去るのみ。










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# by hidyh3 | 2018-03-29 15:59 | Comments(0)

傑作の森のいちばん高い木

だれも知るようにベートーヴェンという作曲家は西洋古典音楽のさまざまな領域において大変革をおこした。

かれ以前とかれ以後では曲の存在する次元が異なってしまったものも少なくない。


最たるものが交響曲であることはいうまでもないが、かれ自身がピアニストだったことと、かれの後半生になって現代のピアノに近い完成型が登場するという事実も手伝ってピアノ曲でも同じようなことが起こった。かれの32曲におよぶピアノ・ソナタはその真骨頂であるが、その余波をうけてシフトチェンジされたものにヴァイオリン・ソナタがある。


モーツァルトのころまで「ヴァイオリン・ソナタ」とはじつはピアノ・ソナタのひとつであり、ヴァイオリンはあくまで装飾品あるいは添え物なのだった。だがベートーヴェンの過剰ともいえる表現の発露によって、そんな古ぼけた主従関係はみごとに破壊された。そして、だからヴァイオリン・ソナタでは表現者はブァイオリンでなければならなかったわけである。「クロイツェル・ソナタ」の冒頭がそのことを如実に語っている。


そういう楽器の過度な表現力のきしみのようなものが現れているのは、皮肉なようだが、ピアノ協奏曲だとわたしは思っている。


独奏ピアノとオーケストラとの均衡のとれた完成形はモーツァルトで頂点に達してしまったので、そしてオーケストラとピアノの双方に充分な表現を求めたら、残るのは形式の破壊か過剰な表現するもの同士の相殺しかない。もちろんベートーヴェンが書いた曲だから悪いはずはないが、5曲の協奏曲が超一級かと問われたら多くのひとは躊躇するのではないだろうか。


ヴィルヘルム・バックハウスは第4協奏曲を愛した。5曲のなかでいちばん地味に響くが、それはオーケストラがほんとうに伴奏に徹しているからで、正面衝突を避けているからだろう。


そうはいっても第3協奏曲のラルゴなどは瞑想の音楽だし、第5のフィナーレの主題はベートーヴェンの面目躍如というべき独創の極みである。


先日、じつに久しぶりにオイストラフが弾くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いて、この曲には形式を破壊に導くようなベートーヴェン的爆発がないことに気づいた。ティンバニの独奏による開始とか、宗教音楽のような第2楽章、切れ目なく演奏される終楽章など、いかにも彼らしい面はあるけれど全体としてのまとまりという意味でいうならこの曲には破綻というものがまったくない。むしろ彼の全作のなかでも屈指の形式美を備えているとわたしには思える。

さらには各楽章の主題がいずれも美しく、そして整っている。

なかでも白眉はフィナーレのテーマで、コンチェルトの定石どおり8分の6拍子のロンドだが、初めから最後の和音まで完璧である。いや第1楽章のティンバニのD音のソロから、と言い換えたほうが正しい。無駄はないが第5シンフォニーのような張りつめた緊張感はなく、全体は豊かに流れるが第3シンフォニーのような過剰さはない。気品と風格を兼ね備え、奥行きと広がりは他のヴァイオリン協奏曲から抜きん出ている。

敢えて言うなら、この曲こそベートーヴェンの書いた傑作のなかの一番の高みにあるのではないだろうか。

・・・暴論にすぎるか。








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# by hidyh3 | 2018-03-28 15:10 | Comments(0)

悪魔の笛

「魔笛」という歌劇がある。


クラシック音楽の世界へはいってまだ足許がおぼつかないころ、この題名を目にしたわたしはどんな恐ろしいストーリーなのか想像し、ちょうど同じ作者のト短調交響曲の甘美にみえてじつはとても激しく揺れ動く感情に翻弄されているときだったので、本能的に遠ざけようとしていた。じつをいうと彼 ― モーツァルトの音楽というものがわたしにはよく判らず、手放しに美しいというひとの心情が理解できなかった。いまだにその姿勢にあまり変わりがなく、モーツァルトは、だからわたしにとっては晦渋な作曲家なのである。これからもずっとそうだろうと思う。


さて、話しをもどすと、当時かれの音楽への道行きで迷っていたわたしには「魔笛」などという題名の曲は、歌劇というジャンルのハードルの高さもあってまさに「敬して遠ざく」存在だった。


そんなわたしの目をあけてくれたのが「フィガロの結婚」で、全曲盤ではなくLP一枚にいい歌ばかりを無理やり収めたハイライト盤だったが、ヘルマン・プライのフィガロ、フィッシャー・ディスカウの伯爵、ベーム指揮のベルリンドイツオペラの演奏だった。


以前にも書いたが、当時のLPのジャケットはりっぱな冊子といってよく、ライナー・ノートも充実した豪華なものであった。各曲の詳細な説明も的確な優れものだったから。半世紀近くも前なのにいまでも「フィガロ」のレコードジャケットの図柄は鮮明に憶えている。


緊張しながら針をおくと、あの、これぞプレストという序曲が始まる。簡潔にして明瞭、かつ愉快で、コーダにはいってからの小気味いいまでのリズムと旋律にわたしは完全につかまった。


ベートーヴェンの第5シンフォニーが苦悩と歓喜の精神ドラマなら、こちらは洒脱と軽みのひとふで書きである。透明感と躍動感がサラリと描かれ、ヨチヨチ歩きのわたしをさらったのである。たしかそのライナー・ノートのなかに「魔笛」の名が出てきたのだった。


いったいいつ観念して「魔笛」を聴いたのだったか。


思い出せないのだが、やはりベーム指揮だったと思う。ディスカウがこちらではパバゲーノを歌っていたはずである。レコードで聴いたから高校生の頃なのは特定できるのだが。


モーツァルトは変ホ長調で曲を書くときはトニカの和音を前面に出すのが好きだった。だがこれはベートーヴェンにもいえるから19世紀初頭までは変ホ長調の響きは作曲家の琴線と特別な共鳴をしたのであろう。


後年になって「魔笛」という訳がピントはずれだと知った。「魔法の笛」と「法」の字ひとつ付けてくれたら、いもしない魔物を恐れることもなかったものを・・・


そういえば高山で霧に映った自分の影を魔物と恐れることがあったよなぁ。「ブロッケン現象」というのだったか。じっさいにわたしは何度も経験したが、たしかに予備知識のないひとがあれを見たら、そうでなくても高山で視界が遮られるというのは、もうそれだけで充分に恐怖だから無理もないが。








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# by hidyh3 | 2018-03-23 17:36 | Comments(0)

別れの予感

ヨーロッパやアメリカでは9月が新学期だから6~7月あたりが苦楽ともにした友との別れになる。

わたしはそういう環境で生活した経験がないので想像でしか言えないのだが、悪くないね。生命力がみなぎる季節に次のステージへと向かう。すくなからずセンチメンタリズムがともなう恩師や友との別れを、夏というキッパリとした景色がおさえつけくれるから。

他方わが日本では、出会いと別れは、春だ。

満開の桜のもと、別れを惜しみ落涙する。新たな世界へ旅立つ背中を春風がやさしく押す、これもまた悪くない。

そう考えると、長年つとめた会社を4月に去ることができるわたしは、とても幸せなのかもしれない。

わたしは老兵なので消えるように去るつもりだ、マーラーの交響曲9番の終楽章のように。








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# by hidyh3 | 2018-03-17 17:34 | Comments(0)

このさき危険

念のために言っておくが、わたしは性別や人種、あるいはその他さまざまな点での偏見や差別というものはいっさい持ち合わせていない。


わたしの認識では、差別や偏見というものは無知と無教育、無教養の産物なので、差別する人間というのはみずからを無教養、無教育の愚か者であると公言しているようなものなのである。


母は生前、東京都の身体障害者1級の認定を受けていたから、本人はもとより家族の気持ちや行動をわたしは理解することができる。本人の意思とはべつの安全な道を歩くことを強要したり、嫌がることを強いたこともしばしばであった。大正生まれの頑固な江戸っ子だった母は、だからよくわたしたち家族と意見の衝突をしたものである。


わたしも歳をとるにしたがって「生きる」ということの不条理がだんだんと判ってきたので、母の晩年には好きなことを邪魔することなく本人の望みをできるかぎり尊重するようにしたつもりである。充分だったとはいえないが、そうするよう努めた。


そういうわたしの目でパラリンピックを見ると、心のどこかに納得しきれないものが澱のようにたまっていく。アイスホッケーの試合を観たときなどは怪我をして障害がさらに進んだらどうするんだ、と余計な心配までしてしまった。やっている側にしてみたら「バカ言うな、それこそが差別だ!」と罵倒されるだろうが。


わたしの知り合いに学生時代ラグビー部でレギュラーをつとめていた者がいて、試合中に怪我をして、それが原因で半身麻痺になった。本人は表面的には愚痴をいうようなことはなかったし、憐みのまじった視線を向けられることを嫌ったが、本人の家族たちからはかなりの負担を強いられたと聞かされた。玄関や居室、トイレや風呂の改造からはじまって日々の介助は、なにしろラガーマンだから母親ひとりだけではお手上げだったそうである。


ハードなスポーツをだからするな、などという幼稚で短絡的なことを云いたいのではない。人生にはどんな陥穽が待ち受けているかなんてだれにも判らない。安全運転していたドライバーが他責の事故に巻き込まれとしまうこともあれば、高いところにある駅のホームから酔っぱらって地面に落ちたのにケガひとつ負わなかった幸運なひともいる。


身体に障害があってもハードなスポーツをしたいという衝動は、やや乱暴な表現ではあるが、本能的な欲望に近いものなのだ、と考える。危ないとわかっていても、家族に新たな負担をかけてしまうリスクがあるとは知っていても、欲望はおさえきれない。ある意味でこれは健全で健康な精神活動だといえるだろう。そういう向こう見ずともいえる気持ちがなければ障害とともに生きていくことなどできないからである。


根が弱虫で小心者のわたしには、だからパラリンピックで格闘している彼らがとてもうらやましい。









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# by hidyh3 | 2018-03-13 15:01 | Comments(0)

準備完了いたしました

このブログを読んでくださっているかたから「もう書くのをやめたのか?」というご質問を頂戴した。


書くのをやめたわけではなく、じつは自宅のパソコンが壊れて使えなかったのである。

Dellのもので、なにしろOSWindows Vistaだったからどれくらいの年代物かお察しいただけると思う。さすがにもう働けません、突然の辞表であった。


日常つかうのはインターネットとメール程度だったので、古くてもとくに困らなかったのだが、昨年iPhoneを買い替えiTunesに接続して同期しようとしたら、できなかった。


キャリア会社に問い合わせたがダメで、アップルに尋ねて「OSが古いため同期できない」とようやく判明した。


わたしの手許には約5,000曲が収められている古いiPhone(なんと4S)が残っており、こちらは回線をきられているので単なるミュージックプレイヤーでしかないのだが、わたしにとって音楽というのは水や空気とおなじような存在なので、けっきょく新しいものはメールと電話用、4Sは音楽用ということで、この1年近くはつねに2つのiPhoneを持ち歩くという、とても非スマートな日々であった。


ITにはひどく不案内なので新しいパソコンを購入すべく家電量販店にいって売り場の係員と話しをしてもかみ合わず、こわれたDellのほうのデータもできれば移行して欲しと頼み、かつ自宅でいろいろな設定をするのもDellのときに発狂しそうになった記憶があったので専門員に来宅してもらうという契約もいわれるままにして、何だかんだで結構な金額になってしまった。老眼がかなり進んでいるのでスマートフォンをパソコン代わりにすることはとうてい無理だからでやむを得ないのだが、それにしても痛い出費であった。


一昨日ついにiPhone 7と接続し、ぼう大なかずの曲はめでたく移行できたのだが、気がつけば先日書いたように通勤定期券もiPhoneに入ってしまったし、いくらパスコードを入力しなければ起動しないとはいっても万が一失くしたときのダメージを思うと恐ろしくなった。


便利さとか手軽さの裏にひそむ大きくて深い陥穽は、文明の進歩とつねに同じ歩調で進むわけで、こちらがそのテンポについていけないとなると、不便さや危険のほうが深刻かつ身近になってしまうものである。


このことは、たとえば思想とか生きかたについてもいえるので、ある種の新興宗教などはその典型なのであり、またデジタルな生きかたというものも、一歩誤ると技術に使われる人生となってしまう。


そういうところへ落ちないためにはつねに活き活きとした常識をアップデートし続け、デジタルを使いこなす最新の知識を更新しなければならない。魚の身を美しい刺身に仕上げる包丁は、いとも簡単に人殺しの凶器となりえるのと同じである。








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# by hidyh3 | 2018-03-08 15:41 | Comments(0)

身辺整理

2月12日は振り替え休日だったので、会社に置いてあるあれやこれやを整理しようと思い事務所へいった。

休日でも仕事をしにくる者がいるから出会うことのないよう朝7時30分ころに事務所のドアを開けた。さすがにだれもいない。わたしは安心して椅子に座り、3段ある引き出しを上から順にゆっくりと点検し始めた。日常つかうものはだいたい限られているので、仔細に見ていくと「ここにあったのか!」と驚くものも少なくなかった。

その最たるものが期限の切れた定期券(スイカ・カード)とそれを収めた革製の定期入れだった。

これを探すためにわたしは自宅の机、書棚、そしてクローゼットを何回ひっくり返したことか。けっきょく見つからなかったので新たにスイカを購入し、やめればいいのにiPhoneにスイカのデータをいれて期限更新のときや乗り越し料金を支払うときなど大慌てをした。いまでも判らないことだらけで、ああ、時代についていけないとはこういうことだなぁ、とため息ばかりついている。

そんな自虐のきっかけともなったスイカがこんな至近距離にあったとは!

このぶんでいくと何処から何がでてくるか、恐くもあり楽しみでもあったのだが、そんなことに時間を費やしているとだれかがやって来るかもしれないので机の上をザックリ3分割し、自宅に持ち帰って使えるもの、事務所に置いておき最終日に捨てるもの、今すぐ捨てるものと直感で分別することにした。

いろいろと思い出ぶかいものも出土されたのだが、使いもしない単なるセンチメンタリズムの残滓はすべて捨てた。不思議なもので、もうこの会社とも縁がなくなることがハッキリすると、2度と会うこともない奴らからもらった寄せ書きだとか仕事にまつわるものは塵ほどの迷いもなく捨てられた。

はじめて営業のマネジャーになったときのメンバーの業績表やら、営業会議での発表資料やら、たしかにわたしのマイルストンではあるが、そしてそのころはわたしの会社人生の絶頂期だったのだが、憑きものが落ちたようにまったく未練なく捨てられた。いや、より正しくいうならゴミ箱に軽い憎しみとともに叩き込むことができた。志賀直哉の「和解」のなかで音楽会のプログラムを「厄落とし」の意味をこめて捨てる場面を思い出していた。

自宅で使えるもの、たとえば鋭利で使いやすいカッターだとかスチール製のメジャーなどの山がもっとも大きく、会社にある社名とロゴ入りの大きな手提げの紙袋がパンパンになってしまった。おかげで引き出しはスカスカとなり、最終出社日の片づけは数分で終わりそうだった。

こんかいのリストラはかなり規模の大きいもので、グループ全体で10,000人を削減するそうである。会社も先々のことを考えてわたしのようなおいさきの短い者からどんどん削っていくのだろう。昨日の新聞記事には、とある半導体メーカーがかつて経営危機に陥り、開発者を大幅に削減することでその場の倒産はまぬがれたものの、能力ある者までも切り捨ててしまったためこれから先の事業継続のメドが立たなくなってしまった、とあった。

営利集団を導くむずかしさがハッキリとみえる事実であるが、歴史ある企業というのはどこも同じような修羅場を経験してきたのだろう。わたしの属する会社が断行したこんかいのリストラによって、去る者も残るものも等しく地獄だろうと思う。なぜなら、わたしのような経営の素人がみても35年の内部観察からこの会社が回復基調に乗る要素がまったくないからである。

脳疾患や心疾患で突然死することは無いかわりに、スリムになった身体から潮が引いていくように体力がなくなり、干からびていく。そういう意味では定年による円満退職は果たせなかったものの、むしろわたしは沈み行く船から運よく振り落されたのかもしれない。

健康長寿というのは、だから人間だけにあてはまるものではないのである。












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# by hidyh3 | 2018-02-14 21:50 | Comments(0)

春遠からじ

いろいろあって35年つとめた会社を辞めることになった。

すばらしい体験もあったし、おぞましい場面にも立ち会った。だが、もう終わったことだ。

しばしの間奏曲のあとに、つぎの幕が開く。

冬も去りつつある。








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# by hidyh3 | 2018-02-10 17:40 | Comments(2)

早期退職

かつて立川談志が60歳をいくつか過ぎたころ、自身がこれから踏み込んでいく老いへの不安や、苛立ちと不可逆な時間の流れにたいする絶望感のようなものを相手に格闘しているドキュメント番組があった。

リアルタイムでわたしは見なかったのだがYouTubeでそれを見て、かれの心情が切実に感得できてこころがひどく寒々しい気持ちになってしまった。それは死ぬのが怖いというのとはまったく違う感情で、むしろ老いという状況のなかをなお生きねばならないということの、敢えていうなら徒労感なのである。

とくに談志は芸人であり、しかもその芸がきわめてオリジナルで、伝統と瞬間のかれのひらめきとに支えられる稀有なものなので老いることが芸に深みをあたえるというものの対極に位置していた。

俗にいう「芸が深まる」ということと年齢をかさねることとのあいだには、どういう相関関係があるのだろう…

落語からはすこしばかり離れてしまうが、いわゆる芸術家にはかならず旬がある。それがいつなのかはあとになって「ああ、あのときが自分の旬だったのか」と本人が、あるいは周囲が気づくものであり、そのど真ん中にいるときにはだれにも判らない。批評家が「彼、彼女はいま絶頂をむかえている」などといったり書いたりすることはよくあるが、それは周囲がそう思っただけで何ら確たる証拠があるわけではない。

たとえばバッハという作曲家がいた。かれが作った曲は壮年期のものも晩年のものもあまり差がない。つまり若いころから晩年までずっと「旬」だったともいえるし、かれにはそもそも「旬」という時期などなかった、ともいえる。

これが演奏家となると、聴く側の好悪がおおきく作用するので何ともいい難いのだが、わたしの感覚ではたとえばトスカニーニという指揮者は晩年になっても鋭角的で推進力にも衰えをみせることなく速いテンポで一気呵成にすすんでいった。

他方フルトヴェングラーは若いころも晩年もテンポや表情が変幻自在で、だから曲の解釈をもてあそぶようなところだけは不変だったと評してもいいだろう。カラヤンは1950年代後半から1970年あたりが旬だったのではないだろうか。基本的にはトスカニーニと同じカテゴリーに属するが、晩年はテンポやフレージングにゆるみがでてきたように感じられる。チャイコフスキーの交響曲をかれは壮年期に手兵のベルリンフィルと何回か録音し、晩年はウイーンフィルともレコーディングしている。

カラヤンにとってチャイコフスキーの交響曲というのは、いわば一流の鮨職人が大間の最高級本マグロを握るようなもので、これ以上は望むべくもない至高のカップリングである。

だが現実はやさしくなく、壮年期にベルリンフィルと録音したチャイコフスキーの第6番(とくに1964年のもの)と晩年のウイーンフィルとのそれでは、まったく比較にならないくらいの落差がある。あのカラヤンにおいておや!

加齢による緩みをさしものフィーフィルでも糊塗できなかったわけだ。

かつての颯爽たるカラヤンを知っているだけに、晩年の録音は残酷だ。

先週、会社からわたしは早期退職を告げられた。









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# by hidyh3 | 2018-02-04 04:27 | Comments(0)

高尚で深遠なワルツ

土曜日のフランス語授業のあと、新日本フィルの定期演奏会へいってきた。

学校が御茶ノ水、演奏会場が錦糸町のすみだトリフォニー・ホールだったので13時にレッスンが終わったのだけれど余裕をもって会場に入ることができた。演奏会前の余裕はぜったいに不可欠の重要項目であり、会場に着いたときからすでに演奏は始まっているといっていい。その逆もまた然りで、演奏が終わっても会場を出てしばらくは、まだ演奏会は続いているのである。なんだか団体旅行の添乗員が別れ際によくいう「みなさま、気をつけてお帰りください。自宅に着くまで旅は続いていますので」という常套句とおなじで芸がないのだが、真実である。

この日の演目はワルツ一辺倒で、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを下敷きにしているのは明らかなのだが、ちょっと工夫がみられたのは何曲もつづくヨハン・シュトラウス一家のワルツやポルカの前と後、すなわちオープニングとエンディングの2曲はラヴェルだった。「高貴で感傷的なワルツ」で演奏会は始まり「ラ・ヴァルス」が終曲という演出である。

こういうプログラムというのはなかなか聴けないのでたいへん楽しめた。

最初のラヴェルが終わり、J・シュトラウスのワルツが鳴り出した途端、海辺のリゾート・ホテルからとつぜん山あいの民宿に連れてこられたような幻覚にとらわれた。こちらの感性の回路を修正するのにすこしばかり手間どったが、まあ相手はJ・シュトラウスだから全身を脱力させればいいだけなのだが。

同じようにシュトラウスのワルツの余韻がのこるなか「ラ・ヴァルス」が響きだすと音楽の偏差値がいっきに30~40程度あがったように感じられ、耳のリセットはこちらのほうが難しい。

「ラ・ヴァルス」を聴きながら、この曲はラヴェルがハブスブルグ家全盛のころのウイーンにおける宮廷舞踏会をイメージして創ったことを想いだし、パロディもここまで格があがると、いうまでもないことだが、娯楽と芸術のあいだに広がる深淵をいやでも認識させられた。それは同時にそれを書いた音楽家の質の差でもある。

当日の指揮者は日本人で、わたしは初めて聴くひとだったが、シュトラウスのワルツ、ポルカを振るときのしぐさは100%カルロス・クライバーの物真似であった。ああ、かれはいま自分にクライバーが憑依したと思っているのだな、あるいは思いたいのだな、などと考えているうちにわたしは別の問題に遭遇した。それはそれは、とても深刻にして決定的な大問題である。

芸術としての格はべつとして、ウインナ・ワルツはその独特なリズムが真骨頂なので、それがなければウインナ・ワルツ足りえない。とはいってもそのリズム、いうなればワルツのウイーン訛りなのであり、けっして典雅でも高貴でもない。だが江戸っ子が江戸訛り、すなわちべらんめぇ調を矯正するどころかむしろ誇りとしているように、ワルツのウイーン訛りもひとつのジャンルとして君臨している。

だが、たとえば東京生れのひとが関西弁をまねるとホンモノの関西人には耐えられない、もしくは気持ちが悪くなるのと同様、ウイーンっ子でなければそのなまったリズムをただしく奏でられない。ヨーロッパのプロのオーケストラは、だからウイーン・フィルかウイーン交響楽団以外は弾かないし、弾けない。ベルリン・フィルもロンドン交響楽団も、ロイヤル・コンセルト・ヘボウも弾かない。それは敬意のためというよりも「敬して、これを遠ざく」に近いとわたしは思う。もっと乱暴にいうなら、民謡はその土地のひとに歌わせておけばいいので、われわれはもっと知的にして普遍的なほうを選ぶ、となるだろう。

1975年にカール・ベームがウイーン・フィルと来日したときの最終日のプログラムは、前半はオール・シュトラウスで後半がモーツァルトの41番シンフォニーだった。幸いにもわたしは前から5列目の、ベームを斜め左に見あげる席で聴けたのだが、シュトラウスを演奏している最中のウイーン・フィルのメンバーたちの顔は満面の笑みでじつに楽しげであった。肝心の演奏よりその光景のほうが強烈だったのでいまだに鮮明な画像がよみがえる。

当時のウイーン・フィルはウイーン生まれの男性しか入団を認めないという、ひどく厳格なコードを墨守していたから、おなじオーストリア人でもグラーツという片田舎出のベームは振らされていた、というのがほんとうだろう。

そもそもわたしのような一般的大多数の日本人は舞踏会というものを知らないから、ヨーロッパの舞踏会にながれる空気を知らないし感じようがない。

ましてや19世紀後半のウイーンの舞踏会の雰囲気など絶対的に知るすべがない。したがって日本人の指揮者がカルロス・クライバーになったつもりで指揮台のうえで舞うようにタクトを振り、真紅の裏地の燕尾服をまとった日本人コンサートマスターが、照明にダイアモンドのような輝きを発する装飾をほどこしたヴァイオリンを掲げて日本人によって構成されたオーケストラを率いたとしても、そしてそれを聴く側のわたしたちもホンモノをたいていは知らないから、その日の演奏会場は「ごっこ」ないしは「みたいな感じ」的モノマネ空間だったことになる。

そんな「ちゃぶ台返し」の如きことを考えながら聴いているとJ・シュトラウスのワルツがますます軽薄に聴こえてきて困ったのだが、ある意味で娯楽音楽である彼の曲はだからこそわたしたち日本人には受け入れがたいのだと気がついた。つまり音楽と、かの地の生活感が直結しているわけで、関西弁はネイティブの関西人でなければ話せないのとまったく等しいのである。

ここからはとても高度な芸術論になってしまうが、超一流の音楽はそういうローカリズムとは無縁である。したがってローカリズムと縁の濃い音楽は超一流とはいえない。

かつて吉田秀和が初めてヨーロッパに音楽を聴きにいったとき、ブルックナーのシンフォニーを聴きなが寝てしまい、現地の評論家に自分はブルックナーが理解できない、そう述べたら「おまえたち日本人にはベートーヴェンやブラームスの理解が精一杯だろう」といわれ悔しい思いをした、と彼自身が書いているが、いま披瀝した論法でいくならブルックナーはローカルな音楽家の筆頭格なのでベートーヴェンやブラームスと比較するのが誤りだということになる。

正しい。そのとおりだ。

マーラーもしかりだが、明晰ということばの対極にある音楽がブルックナーなので、深刻そうな顔つきに騙されてしまうが、かれの音楽はサウンドを楽しむためのもので、人生の示唆とか教示というようなものはまったくないのである。まあ、そもそも音楽とはそういうものだった。

音楽を哲学あるいは人生の指針にしてしまったのはベートーヴェンである(このあたり太宰治が「渡り鳥」という短編の冒頭にうまく書いている)。

…などと書きだしたらキリがないので今回はこれでグッド・バイ。









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# by hidyh3 | 2018-01-17 21:00 | Comments(0)

年齢をかさねるに従って、あけてこなかった扉があまりに多いことに気づき、今ではそれらの扉をひたすら開くことが、わたしの生きることの証しです。               C'est la vie !!
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