2017年 12月 28日
師走の割烹着
わたしが子供のころだから1960年代後半から70年代にかけてである。
とうじは東京でも1月1日から3日のあいだは商店も閉じられ、むろんコンビニなんて存在しなかったから食べるものはもとより買い物ということ自体ができなかった。したがって12月31日の夕刻まで母は台所に立っておせち料理をつくるのに懸命だった。
まるで岩石のような古いガスコンロ2台を駆使して豆を煮たり青菜を茹でたりと寸暇を惜しまぬ大奮闘だった。今から思うと、祝いものを作るというよりは3日分の食糧備蓄の準備にいそしんでいた、というほうが近い。
なにしろ大きいところはデパートから小さなところは個人商店まで完全休業なのだから、おおげさにいえば死活問題だったわけだ。慣習とか縁かつぎということを嫌った母は、わたしたち子どもの我がままを聞き入れ好みに合ったものを作ってくれた。
お節料理というのがわたしは苦手で、何しろ基本的に甘いものが多いからおかずにはならないし、といってそれだけ食べてもとくに旨いとは思えない。縁起物だから、まぁ、そういうことなのだろう。
そんななか、なぜか母は黒豆だけはぜったいに譲らなかった。丹波産の上等のものを買い込み、水に浸し、弱火で灰汁をすくいながら何日もかけて煮ていった。
そのころは判らなかったが、いま思えば充分に売り物になる出来栄えだった。豆の表面はつやつやとなめらかで、しわが寄ったり破れたりしたものなど一つとしてなく、甘さも控えめの上品な味わいであった。
後年わたしが結婚し、妻が初めて作った黒豆を見て驚いた。その後何度か妻はチャレンジしたが、とうとう何年目かにはさじを投げてしまった。いまではパック詰めになったきれいな黒豆が一年中食べられるが、母の煮た、あの入魂の黒豆には到底かなわない。
母は食べることが好きで、かつチャレンジャーだったので、世の中にないオリジナル料理や、期せずしてのちの世に似たようなものがでてくる品もあったが、基本的に素材から手をかける料理作りが好きだった。したがって惣菜を買ってくるということはゼロで、揚げ物でも焼き物でも煮物でも漬物でも、狭い台所で作るのだった。
鳶職人の長女で、小さいころから貧乏していた母のいったいどこにその根があるのかいまもって不明なのだが、毎年この時期になると、割烹着すがたの母の後ろ姿が思い出される。
母よ、フランスのことばでは、あなたのなかに海がある…