2017年 11月 03日
精神の洗練
前回このテーマについて書いたので、つづきを認める。
よく使われる例えとして、「百発百中の大砲一門と、百発一中の大砲100門のどちらが有利か」というのがある。
このことを「知識」に置き換えていうなら、メディアで聞きかじっただけの表層的情報をいくつも持つものと、何百トンもある旅客機が空を飛ぶというただそれだけのメカニズムを100%知り抜いているひとのどちらと話したいか、まぁ雑駁だけれどそんなところではないか。
このばあい、浅薄ではあるがいろいろと知っている者のほうが頼りになる、と思うかたもおられるだろう。それはそのとおりで、わたしもそのての人間のおかげで終電に乗りおくれることなく無事に自宅のベッドで寝ることができた。
だが、敢えていってしまうが、そういう奴は便利屋でしかない。失礼だけれど、ただの道具なのである。
対してひとつのことを徹底的に考え知り抜いている奴はといえば、ひとつのことを知り抜こうとするとそれを幹とし、いろいろな方面に枝葉が延びていって、結果として一本の木がいつしか広大な森となっている。しかもそれらすべてに精通し考え抜かれているからほぼすべての知識を有している。
したがって、全方位的な知の巨人となる。
精神の洗練とは、だから量のことではなく質のことをいうのだが、結果として量も質も兼ね備えることとなるのだ。
さらには、精神が洗練されると、立ち居振る舞いといった外見的なことまでもが、程度の差はあるがスマートになってくるものだ。ひといずくんぞ隠さんや、である。
by hidyh3
| 2017-11-03 07:57
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