2017年 09月 13日
本末転倒
写真が趣味のかたにとっては耳ざわりと思うが、わたしは写真を撮るということがひどくきらいである。
旅さきとか身辺雑記的にしきりと写真を撮るひとはおおいが、そういうセンスがわたしにはない。インスタグラムにアップするため必要以上に写真を撮る若者も激増している。まぁ、スマホ = デジカメだから「写真を撮る」なんて意識がそもそもないのかもしれない。
どうしてわたしは写真を嫌うのか。
人生の一瞬というのは日常的なこと-たとえば朝に顔を洗うとか家族と夕食をとるとか、あるいは月が輝いているとか、そういうあたりまえにあることですら一度かぎりのものなので、同じようなことは毎日あるが同じことは二度とない。したがって人生とはかけがえのない出来事の連続なのである。
…だからこそ写真にのこすのだ、そう思われるかもしれない。だが、そうではない。
むかしFM放送でながされる名だたる音楽家の演奏をわたしはさかんに録音していたのだが、番組がはじまり録音を開始するまでは神経を研ぎすませ全身が耳になったかのようなくせに、いったん録音をスタートすると「どうせ録音しているのだから」と放送を聴くことなくほかのことをしていたものだ。そしてときどき演奏の進行度合いとテープの残り時間などを確認し、無事に演奏が終了すると録音を終えカセットテープをケースにいれ「あとで聴こう」そう思いながラックにしまい込む。翌日には別の演奏家による放送があるからまた同じことを繰り返すのである。
録音をした、という事実だけでもう満足してしまい本来の「聴く」という行為をおこたってしまうのだった。いや、放棄していたというほうが近いね。
実をいうとわたしは小学生のころはませた写真小僧で、親に泣き付いてニコンF2とペンタックスSLを買ってもらい、そのときどきの明るさなどから自分のカンで露出とシャッタースピードを判断していた。
いろいろなものを被写体として撮りまくっては月刊の写真雑誌に送ったりもしていた。そしてここぞというときには、わざとコダックのトライX400で撮ったりもした。さきほどの音楽録音になぞらえていうなら素晴らしい景色を「見る」のではなく「撮る」ほうに集中していたわけである。
なにがきっかけとなって「聴く」ことを「録る」ことにすり替えてしまったと気付いたのかは忘れたが、「録る」ことや「撮る」ことがその瞬間にすべての神経をそそぐという切実な体験をわたしから取り上げてしまった。つまり「脳裏に焼き付ける」という人間の高度な意識的活動をしていなかったわけである。
「文字」という便利な道具を発明したがゆえに人間は記憶するというたいせつな行為を忘れてしまった、ソクラテスはそう語った。おもしろいことに本居宣長もおなじようなことを述べている。
このことはいろいろと敷衍できる。
戦前の苦労人だった母は、だからいっけん便利になると思われるようなちょこざいなモノや考えかたを徹底的に嫌悪した。それでいて少しも頑迷固陋なところなどなく、おそろしいほど進取の精神に満ちていた。
とてもわたしのおよぶところではない。
もうすぐ母の命日だ。