2017年 08月 20日
人徳
勝海舟について調べていていちばん驚かされるのはかれの人脈の広さだ。
その発端が長崎での海軍伝習なのは周知のことだが、それよりもかれ自身新しいこと、未知のことへの好奇心がすこぶる旺盛でひるまなかったことが結果としてさまざまな人たちとの交流をうむ。そういう新知識に飢えた学生を教える側の人間が好まないわけはないので、長崎に多数おくられた日本人伝習生のなかでも海舟はオランダ人教官から一目置かれるのである。とくに海舟は以前からオランダ語を学習していたし、あるていどの世界情勢にも通じていたからオランダ教官のほうも新知識を伝えるのに好ましかった。
そしてなにより、海舟というひとりの人間がほかのひとを引きつける魅力をもっていたのである。
このことは幕末から明治へと移る歴史の巨大な節目においてもいささかも変わらない。そういう転換期の要所にさしかかるとひとは海舟を放っておかない。なにしろかれをたいへん嫌っていた徳川慶喜が、もうどうにもしようが無くなったときに頼るのが海舟なのだから。
江戸城明け渡しのときは、戦いを主張する幕臣からも敵側の薩長からも命を狙われるが、それが過ぎればまたひとはかれを求めて訪れる。訪問するひとたちがあまりに多岐にわたっていたので、つまりかれの人脈が途方もなく広かったので様々な揣摩臆測(しまおくそく)をうんだのも事実であるがかれは揺らぐことなく受け入れる。
つまるところは勝海舟の人徳のしからしむるところなのであり、あの時代の日本人を一頭も二頭も抜いていたわけである。
知れば知るほど、調べれば調べるほど、勝海舟のスケールの広さと胆力の深さにはことばが出ない。
by hidyh3
| 2017-08-20 09:00
|
Comments(0)