ブログトップ

Je peux laisser un message ?

身辺整理

2月12日は振り替え休日だったので、会社に置いてあるあれやこれやを整理しようと思い事務所へいった。

休日でも仕事をしにくる者がいるから出会うことのないよう朝7時30分ころに事務所のドアを開けた。さすがにだれもいない。わたしは安心して椅子に座り、3段ある引き出しを上から順にゆっくりと点検し始めた。日常つかうものはだいたい限られているので、仔細に見ていくと「ここにあったのか!」と驚くものも少なくなかった。

その最たるものが期限の切れた定期券(スイカ・カード)とそれを収めた革製の定期入れだった。

これを探すためにわたしは自宅の机、書棚、そしてクローゼットを何回ひっくり返したことか。けっきょく見つからなかったので新たにスイカを購入し、やめればいいのにiPhoneにスイカのデータをいれて期限更新のときや乗り越し料金を支払うときなど大慌てをした。いまでも判らないことだらけで、ああ、時代についていけないとはこういうことだなぁ、とため息ばかりついている。

そんな自虐のきっかけともなったスイカがこんな至近距離にあったとは!

このぶんでいくと何処から何がでてくるか、恐くもあり楽しみでもあったのだが、そんなことに時間を費やしているとだれかがやって来るかもしれないので机の上をザックリ3分割し、自宅に持ち帰って使えるもの、事務所に置いておき最終日に捨てるもの、今すぐ捨てるものと直感で分別することにした。

いろいろと思い出ぶかいものも出土されたのだが、使いもしない単なるセンチメンタリズムの残滓はすべて捨てた。不思議なもので、もうこの会社とも縁がなくなることがハッキリすると、2度と会うこともない奴らからもらった寄せ書きだとか仕事にまつわるものは塵ほどの迷いもなく捨てられた。

はじめて営業のマネジャーになったときのメンバーの業績表やら、営業会議での発表資料やら、たしかにわたしのマイルストンではあるが、そしてそのころはわたしの会社人生の絶頂期だったのだが、憑きものが落ちたようにまったく未練なく捨てられた。いや、より正しくいうならゴミ箱に軽い憎しみとともに叩き込むことができた。志賀直哉の「和解」のなかで音楽会のプログラムを「厄落とし」の意味をこめて捨てる場面を思い出していた。

自宅で使えるもの、たとえば鋭利で使いやすいカッターだとかスチール製のメジャーなどの山がもっとも大きく、会社にある社名とロゴ入りの大きな手提げの紙袋がパンパンになってしまった。おかげで引き出しはスカスカとなり、最終出社日の片づけは数分で終わりそうだった。

こんかいのリストラはかなり規模の大きいもので、グループ全体で10,000人を削減するそうである。会社も先々のことを考えてわたしのようなおいさきの短い者からどんどん削っていくのだろう。昨日の新聞記事には、とある半導体メーカーがかつて経営危機に陥り、開発者を大幅に削減することでその場の倒産はまぬがれたものの、能力ある者までも切り捨ててしまったためこれから先の事業継続のメドが立たなくなってしまったとのことである。

営利集団を導くむずかしさがハッキリとみえる事実であるが、歴史ある企業というのはどこも同じような修羅場を経験してきたのだろう。わたしの属する会社が断行したこんかいのリストラによって、去る者も残るものも等しく地獄だろうと思う。なぜなら、わたしのような経営の素人がみても35年の内部観察からこの会社が回復基調に乗る要素がまったくないからである。

脳疾患や心疾患で突然死することは無いかわりに、スリムになった身体から潮が引いていくように体力がなくなり、干からびていく。そういう意味では定年による円満退職は果たせなかったものの、むしろわたしは沈み行く船から運よく振り落されたのかもしれない。

健康長寿というのは、だから人間だけにあてはまるものではないのである。












[PR]
# by hidyh3 | 2018-02-14 21:50 | Comments(0)

春遠からじ

いろいろあって35年つとめた会社を辞めることになった。

すばらしい体験もあったし、おぞましい場面にも立ち会った。だが、もう終わったことだ。

しばしの間奏曲のあとに、つぎの幕が開く。

冬も去りつつある。








[PR]
# by hidyh3 | 2018-02-10 17:40 | Comments(2)

早期退職

かつて立川談志が60歳をいくつか過ぎたころ、自身がこれから踏み込んでいく老いへの不安や、苛立ちと不可逆な時間の流れにたいする絶望感のようなものを相手に格闘しているドキュメント番組があった。

リアルタイムでわたしは見なかったのだがYouTubeでそれを見て、かれの心情が切実に感得できてこころがひどく寒々しい気持ちになってしまった。それは死ぬのが怖いというのとはまったく違う感情で、むしろ老いという状況のなかをなお生きねばならないということの、敢えていうなら徒労感なのである。

とくに談志は芸人であり、しかもその芸がきわめてオリジナルで、伝統と瞬間のかれのひらめきとに支えられる稀有なものなので老いることが芸に深みをあたえるというものの対極に位置していた。

俗にいう「芸が深まる」ということと年齢をかさねることとのあいだには、どういう相関関係があるのだろう…

落語からはすこしばかり離れてしまうが、いわゆる芸術家にはかならず旬がある。それがいつなのかはあとになって「ああ、あのときが自分の旬だったのか」と本人が、あるいは周囲が気づくものであり、そのど真ん中にいるときにはだれにも判らない。批評家が「彼、彼女はいま絶頂をむかえている」などといったり書いたりすることはよくあるが、それは周囲がそう思っただけで何ら確たる証拠があるわけではない。

たとえばバッハという作曲家がいた。かれが作った曲は壮年期のものも晩年のものもあまり差がない。つまり若いころから晩年までずっと「旬」だったともいえるし、逆にかれにはそもそも「旬」という時期などなかった、ともいえる。

これが演奏家となると、聴く側の好悪がおおきく作用するので何ともいい難いのだが、わたしの感覚ではたとえばトスカニーニという指揮者は晩年になっても鋭角的で推進力にも衰えをみせることなく速いテンポで一気呵成にすすんでいった。

他方フルトヴェングラーは若いころも晩年もテンポや表情が変幻自在で、だから曲の解釈をもてあそぶようなところだけは不変だったと評してもいいだろう。カラヤンは1950年代後半から1970年あたりが旬だったのではないだろうか。基本的にはトスカニーニと同じカテゴリーに属するが、晩年はテンポやフレージングにゆるみがでてきたように感じられる。チャイコフスキーの交響曲をかれは壮年期に手兵のベルリンフィルと何回か録音し、晩年はウイーンフィルともレコーディングしている。

カラヤンにとってチャイコフスキーの交響曲というのは、いわば一流の鮨職人が大間の最高級本マグロを握るようなもので、これ以上は望むべくもない至高のカップリングである。

だが現実はやさしくなく、壮年期にベルリンフィルと録音したチャイコフスキーの第6番(とくに1964年のもの)と晩年のウイーンフィルとのそれでは、まったく比較にならないくらいの落差がある。あのカラヤンにおいておや!

加齢による緩みをさしものフィーフィルでも糊塗できなかったわけだ。

かつての颯爽たるカラヤンを知っているだけに、晩年の録音は残酷だ。

先週、会社からわたしは早期退職を告げられた。









[PR]
# by hidyh3 | 2018-02-04 04:27 | Comments(0)

高尚で深遠なワルツ

土曜日のフランス語授業のあと、新日本フィルの定期演奏会へいってきた。

学校が御茶ノ水、演奏会場が錦糸町のすみだトリフォニー・ホールだったので13時にレッスンが終わったのだけれど余裕をもって会場に入ることができた。演奏会前の余裕はぜったいに不可欠の重要項目であり、会場に着いたときからすでに演奏は始まっているといっていい。その逆もまた然りで、演奏が終わっても会場を出てしばらくは、まだ演奏会は続いているのである。なんだか団体旅行の添乗員が別れ際によくいう「みなさま、気をつけてお帰りください。自宅に着くまで旅は続いていますので」という常套句とおなじで芸がないのだが、真実である。

この日の演目はワルツ一辺倒で、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを下敷きにしているのは明らかなのだが、ちょっと工夫がみられたのは何曲もつづくヨハン・シュトラウス一家のワルツやポルカの前と後、すなわちオープニングとエンディングの2曲はラヴェルだった。「高貴で感傷的なワルツ」で演奏会は始まり「ラ・ヴァルス」が終曲という演出である。

こういうプログラムというのはなかなか聴けないのでたいへん楽しめた。

最初のラヴェルが終わり、J・シュトラウスのワルツが鳴り出した途端、海辺のリゾート・ホテルからとつぜん山あいの民宿に連れてこられたような幻覚にとらわれた。こちらの感性の回路を修正するのにすこしばかり手間どったが、まあ相手はJ・シュトラウスだから全身を脱力させればいいだけなのだが。

同じようにシュトラウスのワルツの余韻がのこるなか「ラ・ヴァルス」が響きだすと音楽の偏差値がいっきに30~40程度あがったように感じられ、耳のリセットはこちらのほうが難しい。

「ラ・ヴァルス」を聴きながら、この曲はラヴェルがハブスブルグ家全盛のころのウイーンにおける宮廷舞踏会をイメージして創ったことを想いだし、パロディもここまで格があがると、いうまでもないことだが、娯楽と芸術のあいだに広がる深淵をいやでも認識させられた。それは同時にそれを書いた音楽家の質の差でもある。

当日の指揮者は日本人で、わたしは初めて聴くひとだったが、シュトラウスのワルツ、ポルカを振るときのしぐさは100%カルロス・クライバーの物真似であった。ああ、かれはいま自分にクライバーが憑依したと思っているのだな、あるいは思いたいのだな、などと考えているうちにわたしは別の問題に遭遇した。それはそれは、とても深刻にして決定的な大問題である。

芸術としての格はべつとして、ウインナ・ワルツはその独特なリズムが真骨頂なので、それがなければウインナ・ワルツ足りえない。とはいってもそのリズム、いうなればワルツのウイーン訛りなのであり、けっして典雅でも高貴でもない。だが江戸っ子が江戸訛り、すなわちべらんめぇ調を矯正するどころかむしろ誇りとしているように、ワルツのウイーン訛りもひとつのジャンルとして君臨している。

だが、たとえば東京生れのひとが関西弁をまねるとホンモノの関西人には耐えられない、もしくは気持ちが悪くなるのと同様、ウイーンっ子でなければそのなまったリズムをただしく奏でられない。ヨーロッパのプロのオーケストラは、だからウイーン・フィルかウイーン交響楽団以外は弾かないし、弾けない。ベルリン・フィルもロンドン交響楽団も、ロイヤル・コンセルト・ヘボウも弾かない。それは敬意のためというよりも「敬して、これを遠ざく」に近いとわたしは思う。もっと乱暴にいうなら、民謡はその土地のひとに歌わせておけばいいので、われわれはもっと知的にして普遍的なほうを選ぶ、となるだろう。

1975年にカール・ベームがウイーン・フィルと来日したときの最終日のプログラムは、前半はオール・シュトラウスで後半がモーツァルトの41番シンフォニーだった。幸いにもわたしは前から5列目の、ベームを斜め左に見あげる席で聴けたのだが、シュトラウスを演奏している最中のウイーン・フィルのメンバーたちの顔は満面の笑みでじつに楽しげであった。肝心の演奏よりその光景のほうが強烈だったのでいまだに鮮明な画像がよみがえる。

当時のウイーン・フィルはウイーン生まれの男性しか入団を認めないという、ひどく厳格なコードを墨守していたから、おなじオーストリア人でもグラーツという片田舎出のベームは振らされていた、というのがほんとうだろう。

そもそもわたしのような一般的大多数の日本人は舞踏会というものを知らないから、ヨーロッパの舞踏会にながれる空気を知らないし感じようがない。

ましてや19世紀後半のウイーンの舞踏会の雰囲気など絶対的に知るすべがない。したがって日本人の指揮者がカルロス・クライバーになったつもりで指揮台のうえで舞うようにタクトを振り、真紅の裏地の燕尾服をまとった日本人コンサートマスターが、照明にダイアモンドのような輝きを発する装飾をほどこしたヴァイオリンを掲げて日本人によって構成されたオーケストラを率いたとしても、そしてそれを聴く側のわたしたちもホンモノをたいていは知らないから、その日の演奏会場は「ごっこ」ないしは「みたいな感じ」的モノマネ空間だったことになる。

そんな「ちゃぶ台返し」の如きことを考えながら聴いているとJ・シュトラウスのワルツがますます軽薄に聴こえてきて困ったのだが、ある意味で娯楽音楽である彼の曲はだからこそわたしたち日本人には受け入れがたいのだと気がついた。つまり音楽と、かの地の生活感が直結しているわけで、関西弁はネイティブの関西人でなければ話せないのとまったく等しいのである。

ここからはとても高度な芸術論になってしまうが、超一流の音楽はそういうローカリズムとは無縁である。逆にいうならローカリズムと縁の濃い音楽は超一流とはいえない。

かつて吉田秀和が初めてヨーロッパに音楽を聴きにいったとき、ブルックナーのシンフォニーを聴きなが寝てしまい、現地の評論家に自分はブルックナーが理解できない、そう述べたら「おまえたち日本人にはベートーヴェンやブラームスの理解が精一杯だろう」といわれ悔しい思いをした、と彼自身が書いているが、いま披瀝した論法でいくならブルックナーはローカルな音楽家の筆頭格なのでベートーヴェンやブラームスと比較するのが誤りだということになる。

正しい。そのとおりだ。

マーラーもしかりだが、明晰ということばの対極にある音楽がブルックナーなので、深刻そうな顔つきに騙されてしまうが、かれの音楽はサウンドを楽しむためのもので、人生の示唆とか教示というようなものはまったくないのである。まあ、そもそも音楽とはそういうものだった。

音楽を哲学あるいは人生の指針にしてしまったのはベートーヴェンである(このあたり太宰治が「渡り鳥」という短編の冒頭にうまく書いている)。

…などと書きだしたらキリがないので今回はこれでグッド・バイ。









[PR]
# by hidyh3 | 2018-01-17 21:00 | Comments(0)

戦い終えて日が暮れて…

先週の土曜日は寒かった。

いまのわたしにできる最大限の防寒対策をとって朝の澄み切った大気のなかフランス語の授業へと向かった。学校に着きレッスンがおこなわれる教室を確認するべく貼りだされた表をみつけ目で追うと4階であった。

寒さ対策のためになにしろ雪だるまのように着ぶくれていて、そのうえ久しぶりに持つフランス語授業用のキャンバス地のバッグが、いまどき時代遅れの分厚い辞書2冊にテキスト、ノート、ペンケースなどでひどく重たく、しかも駅から学校までのあいだには傾斜こそ緩いものの長い登り坂があって早くも疲労しているものだから、4階までさらに階段をあがることは行き倒れる懸念が大なので迷うことなくエレベーターに乗った。

このエレベーターも設置されたのはつい4年ほど前のことで、創立から100年以上の歴史をほこる日本の最古参の語学学校にふさわしく、かよってくる生徒たちの高齢化が理由なのだった。

義務教育の小学校や中学校ですら統廃合がすすんでいるのだから、大学入試に必要のないフランス語やギリシア語の教授を売りものにしているこの語学学校にとって少子化/高齢化は深刻な問題なのである。けれどもどういうわけかエレベーターは設置当初から使用するひとは多くなく、教師陣はもとよりかつては若かった生徒たちですら階段をのぼるのが大多数だった。そんな自虐的あるいは自己認識不足でないわたしは、ゆっくりと上昇するエレベーター内で呼吸を整えた。ほんとうの戦いはこれからなのだ。こんな状況でエネルギーを消費する余裕などないのである。

教室にはいると授業が始まるまで30分以上あるのに既に2人の生徒が楽しげに会話していた。

じつはこのクラス、生徒のほとんどが同じ教師の初級から続いて参加しているので、たいていはもう互いに顔見知りあるいは昵懇である。そのことははじめから判っていたので、それを踏まえての緊張にわたしは先日からしばられていた。3年のブランク、アウェイでの試合、テキストも新しいもので前回受講していたものよりやや難しい、などなどわたしの元気をうばう要素に満ちているが、それらへの戦意こそわたしが求めていたものなのだ、とあらためて奮起をうながし「おはようございます」と2人に声をかけ、今日からなんです、どうぞよろしく、と明るく積極的にあいさつをした。

こういうときは最初に挨拶したほうが場の主導権をにぎる、あるいは気おくれせずに済むのを経験的にわたしは知っているし、何より挨拶はいまの日本人に欠けているもののなかでもっともその価値が大きく、そして非国際的な行為だから外国語を学びに来ている人間にとっては挨拶しない日本人とは外国語を学ぶ資質に欠ける、そう判断され、しかるべく扱われる。

いつものように教室の中央の最前列に座った。教師との距離は2メートルもない。

授業開始を告げるベルが鳴り、しばらくして教師が入ってきた。

そのあとの3時間はなんとか持ちこたえたて初日は終えたが、いいたいことを単語が出てこないためにいえず、教師のいっていることが雰囲気とポーズでは理解できるのだが言語として理解できないというもどかしい時間だった。ということはつまり、他人にはどう映ったかは知らないが、KOされてリングにぶっ倒れるというカタストロフだけは避けられたものの、やはり「敗戦」という文字が頭にうかぶ。

日曜日は朝からずっと教科書と辞書をまえにしていい汗をかいた。


2014年の自分を超えるのだ。









[PR]
# by hidyh3 | 2018-01-16 11:58 | Comments(0)

あした、再び。

明日から再挑戦のフランス語授業がはじまる。


前回のべたように2015年1月に受けるのをやめたのでちょうど3年間のブランクがあるわけだ。コトバは道具だから使わなければ劣化する。しかもわたしの場合は50歳になってから学び始め、かつ日常でフランス語をつかう状況というのは皆無なので、劣化のスピードは恐ろしいほどに速く、そして完璧である。


やめる半年前、すなわち2014年の夏にニュー・カレドニアに妻といったときがおそらくわたしのフランス語力が絶頂をむかえていたころで、現地のレストランでとなりに座るフランスからバカンスでやって来たカップルと意気投合して乾杯を繰り返しては大笑いし、ワインショップを開店前に訪ねて店主(フランス人) と酒談義に花が咲き、あげくには彼がいちばん大切にしているという酒をこっそり見せてもらった (なんとそれは日本産のシングルモルト・ウイスキー!) 。


さらに妻が行きたがっていたレストランの予約を電話でした。外国語にかぎらず電話で何かを依頼したり引き受けたりというのはそれなりにスキルが必要なのは多くのかたがご経験であろう。


2014年ころは、だからフランス語で日常を過ごすことにほぼ苦労はなかった、といっていい。


以前も書いたよう猛烈に勉強したからそれくらいのレベルにならないほうがおかしいのだが、若いころに覚えたもの – たとえば「大化の改新は645年」とか、英語の「3・単・現にはsがつく」のように、まるで自分の意識に貼りついたような覚えかたというのは歳とともに難しくなり、そして語学などはそういう覚えかたをしなければダメな典型なので3年のあいだ聞きもしなけりゃ話しもしないとなればものの見事に白紙状態となる。


それゆえ、やめるときには上級の手前くらいまでには迫っていたのだが、劣化の程度は自分がいちばん知っているので今回は初級から再スタートするつもりで語学学校の受け付けへといった。


わたしが中級を終了するときに使用されていたテキストとは違うものが使われていて、受け付けにサンプルが置いてあるのでパラパラと眺めてみたのだが、とてもよそよそしく素っ気ない風情で、ああ、フランス語のほうでもわたしを敬遠しているんだな、そう思わざるを得なかった。


なんとも寄る辺ない乾燥した気分で受け付けの女性に申し込みをしたい旨をつたえ、3年前の学生証をだした。


学生証がないと入学料金として8,500円あらたに支払わなければならないからである。だが、わたしが提出したものはもう無効になっていて (1年以上のブランクがあると失効することをそのとき知った) 提示した意味はなかったのだが、その代わりに3年前のわたしが出席していたクラスの記録が書かれていたので彼女はそれをみて


「もう中級は終えられているんですね」


と念を押すように言った。わたしは、でももう完全に初期化されていて、だから正直をいうとどのレベルから再スタートするか迷っているんです、と伝えた。それを聞くと彼女は横にあったトレイから表のようなものが印刷された紙をわたしのまえに置き、右手でその表のマス目を指さしながら教えてくれた。


そこに印刷されているのは各クラスで習得するおもな文法項目で、はじめに初級の欄を順番に「指さし確認」してくれたのである。


そこにある文法項目はたしかに初級者がまず学ぶべきものばかりだった。「おそらくあなたの場合は3回も出席したら飽きてしまうと思いますよ」そういって1から3回目までの講義内容をもう一度点検した。そして「たしかに3年間のブランクは大きいとは思いますが、2、3回も講義に出てしまえば聞くのと話すのはすぐに慣れるはずです」今度は中級の習得項目を見せてくれる。


これとて、話せる話せないは別としてかつて格闘したものばかりだ。次第にわたしは彼女に懐柔されていくのを実感していた– といってべつに彼女は故意にわたしを中級へ導こうとしているわけではない。学校側が受け取る授業料すなわち収益は同じだから、純粋にわたしのために言ってくれているのである。


いっしゅん、3年前にやめたときの緊張感のないクラスの雰囲気が思い出された。ああ、そうだ。わたしはあの弛緩した空気に耐えきれずやめたのではなかったか。わたしが欲しかったのは学びのために前を向く戦意ではなかったのか!


「じゃあ中級にします」


ふっきれたような気持ちでわたしは告げた。


明日は、どっちだ?












[PR]
# by hidyh3 | 2018-01-12 14:05 | Comments(0)

新しい出会いを求めて・・・

2015年の1月にそれまで8年つづけていたフランス語の授業をやめた。

理由は簡単で、学ぶがわの生徒たちの緊張感、ないしは学ぽうという姿勢がそれまでのクラスと比較してひどく低いうえに授業中の雑談もおおく、それも日本語であった。おおくは50代、60代の女性であったと記憶している。

それまでのクラスの成員の顔ぶれはというと、東京地検特捜部検事、ジュエリーデザイナー、フランス系企業の管理職、法学部大学院の博士課程の学生、若い精悍な起業家などなど、どちらかといえばこれからの日本を支えてくれるであろう有為な人たちだった。昨年の春、休職中に沖縄へご一緒したのはそのときのクラスメイトである。

毎週土曜日を犠牲にしてくる人ばかりだからみな真剣で、教師と生徒に心地よい火花が散ることもしばしばであった。そんななかこれといった目的もなくお気楽な気持ちで入学したわたしは、ついていくのがやっとだったのでかつてないくらいに猛勉強をした。大好きな音楽はいっさい聞かず、参考書についているCDを何枚もiPhoneに取り込み、通勤の時間も昼休みも、散歩中もとにかく聞いた。あげくは宿題とはべつにA4版3枚ていどの仏作文を仏和辞典。和仏辞典を駆使し、政治問題、国際情勢、日本人のメンタリティーとヨーロッパの違いなどを6~7時間かけて綴っては毎週提出した。接続法とか間接話法などわざとむずかしい文法に挑戦したから添削され真っ赤であったが、おかげで単にフランス語を学ぶ以上の視野と思考回路のパラダイム・チェンジができたと感謝している。

この1月から、ふたたび語学学校へかようことを決めた。自分の変化が楽しみだ。







[PR]
# by hidyh3 | 2018-01-04 02:20 | Comments(0)

わしづかみ

久しぶりにベートーヴェンの第5シンフォニーを聴いた。いったい何百回目になるだろう。

ある絵について小林秀雄が、作品に観る側のこころをしっかりとつかまえる力がないので、いつもこちらのこころが揺れてしまい感動を得ることができない、そう書いた。これは芸術の本質をいい当てた名言で、超一流の芸術はこちらの状況などおかまいなしに大きな感動だけをのこしていく。

ベートーヴェンの第5シンフォニーがその典型で、中学生のころから今にいたるまで、あの曲の圧力と推進力はわたしの精神状態とかおかれている環境などとはまったく関係なく、わたしの魂をつかみ、ゆさぶり、圧倒的な感動だけを残して去っていく。そこには理屈なんていうものはない。たんなる音のつらなりがひとを叩きのめすという、奇跡のような事実があるだけだ。

音楽もこの領域までくると、演奏を選ぶことはないしその必要もない。

ブラームスを待つまでもなく、ベートーヴェン自身がこのシンフォニーのあとに新たな曲を書くことの壁を感じたはずなのだが、しかし彼はなにごとも無かったかのように先へ進む。

あなたがいてくれたから、わたしは生きることができるのです。





[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-31 00:52 | Comments(0)

再生あるいは復活

このところ営業時間を短縮したり定休日をもうける店舗が増えている、という。


じつは前回書いた文章もそのことに言及したくて始めたのだが、途中からわたしの内なるマザコン魂が黙っていられなくなって脱線したのだった。


すこし前に、日本の度を超えた「おもてなし精神」が宅配やその他の業種に破綻をもたらしている、そう述べた。コンビニでも外食店舗でも24時間営業が当たり前になり、だれもそのことを異常なことだと感じていない。そう感じないことが実はおおいに異常なのだが。


セブン・イレブンという店が日本に上陸したのは、たしか1970年代半ばだったはずだ。文字どおり朝7時から夜11時まで開店している、ということで便利がられ、それを模した店もあとに続いた。高校生だったわたしはそれを真似た近所の大手パン屋の直営店舗で夕刻から23時までアルバイトとして働いた。来店した会社帰りのサラリーマンから「おっ! お宅もセブンイレブンか!」と揶揄されたのを鮮明におぼえている。


日本に上陸したセブン・イレブンはとても日本的な変貌をとげ、いつしか24時間365日営業となり、生鮮食品から銀行機能までもつよろず屋となり本家を追い越した。しかもただのよろず屋ではない。高品質、高機能を売りにしたセブン・イレブンオリジナルブランドまで確立し、もうこれは地域住民の生活領域における超一流総合商社兼小売店といえるだろう。


前述したように、いまの日本の店舗は24時間365日営業が普通のことになっている。ここに日本人の急所があるので、さかのぼれば太平洋戦争の根もそこにある、わたしはそう考えている。


勤勉、克己、ど根性はすべからく美徳であり、善である。無償の行為もまたしかりで、効果の有無など忖度せず命を投げ出して行動し果てることが究極の善であり美であり勇であった。


論理ではなく周囲の雰囲気、空気に流され、個人は消滅して顔のないノッペラボウの集団となる。いったんその集団が流れだすと重力加速度以上の非自然的チカラが後押しし、もはやブレーキは踏めないし止められない。なぜならわたしたちがおこなっていることはお客さまのためであり、組織のためであり、国のためであるからだ。休憩や安息は怠惰の代名詞となり、それをするものは極悪人である。


なんども書いたが、8年間フランス人との密度の濃い接点をわたしは持つことができたので、ヨーロッパ人の感覚で現下の日本を見ることができる。享受していることの便利さの裏側にある犠牲、それをよしとするメンタリティも日本人だから当然わかる。そういう認識のうえでハッキリといえるのは、少子化と高齢化が不可避の日本にいままでの価値観とは覚悟をもって決別しなければならない。文字どおり「再生」しなければならない。


マーラーの第2シンフォニーのフィナーレだ。おまえは甦るために、死ぬのだ。


さしあたり、やはり企業がすすめていくのがもっとも効果的だろう、そう思う。


会社という名の、あるいは仕事という名の風には葦のようにか弱いのが日本人だからである。







[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-29 13:32 | Comments(0)

師走の割烹着

わたしが子供のころだから1960年代後半から70年代にかけてである。


とうじは東京でも1月1日から3日のあいだは商店も閉じられ、むろんコンビニなんて存在しなかったから食べるものはもとより買い物ということ自体ができなかった。したがって12月31日の夕刻まで母は台所に立っておせち料理をつくるのに懸命だった。


まるで岩石のような古いガスコンロ2台を駆使して豆を煮たり青菜を茹でたりと寸暇を惜しまぬ大奮闘だった。今から思うと、祝いものを作るというよりは3日分の食糧備蓄の準備にいそしんでいた、というほうが近い。


なにしろ大きいところはデパートから小さなところは個人商店まで完全休業なのだから、おおげさにいえば死活問題だったわけだ。慣習とか縁かつぎということを嫌った母は、わたしたち子どもの我がままを聞き入れ好みに合ったものを作ってくれた。


お節料理というのがわたしは苦手で、何しろ基本的に甘いものが多いからおかずにはならないし、といってそれだけ食べてもとくに旨いとは思えない。縁起物だから、まぁ、そういうことなのだろう。


そんななか、なぜか母は黒豆だけはぜったいに譲らなかった。丹波産の上等のものを買い込み、水に浸し、弱火で灰汁をすくいながら何日もかけて煮ていった。


そのころは判らなかったが、いま思えば充分に売り物になる出来栄えだった。豆の表面はつやつやとなめらかで、しわが寄ったり破れたりしたものなど一つとしてなく、甘さも控えめの上品な味わいであった。


後年わたしが結婚し、妻が初めて作った黒豆を見て驚いた。その後何度か妻はチャレンジしたが、とうとう何年目かにはさじを投げてしまった。いまではパック詰めになったきれいな黒豆が一年中食べられるが、母の煮た、あの入魂の黒豆には到底かなわない。


母は食べることが好きで、かつチャレンジャーだったので、世の中にないオリジナル料理や、期せずしてのちの世に似たようなものがでてくる品もあったが、基本的に素材から手をかける料理作りが好きだった。したがって惣菜を買ってくるということはゼロで、揚げ物でも焼き物でも煮物でも漬物でも、狭い台所で作るのだった。


鳶職人の長女で、小さいころから貧乏していた母のいったいどこにその根があるのかいまもって不明なのだが、毎年この時期になると、割烹着すがたの母の後ろ姿が思い出される。


  母よ、フランスのことばでは、あなたのなかに海がある…












[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-28 15:46 | Comments(0)

夢は夢だからいいのかな

こんなことをほざくと呆れられてしまうこと必定であるが、いまだに物書きになりたい、本気でわたしはそう思っている。


「物書きになりたい」という夢は若いころからあり、中学2年生の夏休みには小説もどきのものを書いて宿題の代わりとして提出した。そのときの国語の教師というのがたいへんユニークなひとで、そのひととの出会いがなかったら今のわたしはぜったいに存在しないほど決定的な影響を受けた。


いまだにそのひとの名前はフルネームで憶えているし、漢字で書くこともできる。


読書のたのしみと国語の奥深さを教えてくれたのもかれだった。そのときわたしが提出したものはひどいもので、あのころ耽読していた漱石の「草枕」のパロディのような駄文であったが、数日後ひどく罵倒されて返された。


そのあとも暇があれば小説もどきを書いていたのだが、ほどなくわたしは小林秀雄と吉田秀和という巨人と遭遇し、それ以後はほとんど小説を読まなくなり、おりしもわたしの音楽熱も垂直に高まりつつあったので必然的に物書き= 評論家となったのだった。


そしてその残滓はいまでもわたしのこころ深くに沈殿していて、「物書きになりたい」とは「(音楽)評論家になりたい」という意味にほぼ近い。


歳をかさね、いろいろな現実をかいくぐってきたおかげで、若かりし頃のわたしではぜったいに獲得できなかったような視点というものもいくばくかは得ることができ、そのむかしブルックナーを神格化してあがめ奉ったころのように偏った姿勢で音楽を聴き、かたるということもなくなった。


そしてもうひとつ気を配っているのは、いうまでもなく文章である。名文を書こうというようなおのれの能力を計測できない馬鹿なことはしようと思わぬが、平易だけれども安っぽくはなく、どことなく教養感がただようような文章を書こう、とはつとめている。


昨今はインターネットのおかげで昔なら人前に書いたものをさらすことなど一般人にはなし得なかったことだが、いまは普通に可能である。このブログももちろんそのひとつなのだが、だからこそ少しばかり格うえの文書が書きたいと気遣っている。


同好の士もなく、書くことのテーマも定まっていない感想文だから、あまたあるブログの底辺にころがっているだけの無名のシロモノだが、でも手抜きはすまいと心がけてはいる。


とはいえ、これだけ長いあいだ書いてきても読んでくださっているのはごく少数のかただけという現実を前にすると、理由は何であれとても物書きにはなれないし呼んでもらえないよなぁ、…そんな痛い事実に気づくのでした。









[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-20 14:37 | Comments(2)

越えられない壁

先週末、一泊で妻と長崎にいってきた。

これで2度目の訪問なのだが、最初は去年の2月で2泊だった。前回どうよう、長崎市内の中華街にあるビジネスホテルに泊まった。ハウス・テンボスにも軍艦島にもいかず、焼き牡蠣を食べちゃんぽんをすすり込み、夜は思案橋ちかくのディープな店で一口餃子を食しホテル近くの店でエビの焼き小龍包にしたつづみを打ってきた。

翌日はあいにくの雨だったのでホテルのバイキング形式の朝食をとって部屋でまたうたた寝をし、チェックアウトぎりぎりに出てそのままバスで長崎空港へ向かった。羽田行の便は15時20分発なのでまだ4時間以上ある。空港内のすし屋にはいって刺身の盛り合わせでまた酒を呑んだ。

何しにいってきたんだ、と問われれば「旨いものを喰いにいってきた」と答えるほかはない。沖縄にしても函館にしても、おととしいった福岡や札幌にしても、妻といく週末旅行には観光という選択肢はなく、ひたすら食べ、そして飲むためにいくのである。したがって上にあげた都市で宿泊するのはリゾート施設ではなくビジネスホテルとなる。

東京にいればどの地域のものでも食べられるじゃないか、そうお思いのかたも多かろうが、そしてそのとおりではあるが、でも違うのだ。

いちばん端的な例をあげるなら泡盛がある。東京で飲む泡盛と那覇の居酒屋で飲む泡盛はおなじ銘柄でもまったく味わいが異なる。那覇の、あのじっとりと皮膚にふれながらゆるくながれる空気のなかで飲まなければ泡盛はその本領を発揮してはくれない。ウニ・イクラ・ホタテの三色丼は函館の市場で食べねばただの海鮮丼になってしまう。

食べるものの味わいというのは、もちろん舌で感ずるものであるが同時に周囲の空気や雰囲気、そして食べる場所へといく道のりもまた具材あるいは薬味なのである。高校のときの同級生に築地で魚の卸をやっている男がいて、どこが産地であれ一番いいものは東京にくる。だから産地にいくより高価でも東京で喰うほうが旨いし賢い、といっていた。それはそうだろう。

だが、わたしはそういうアプローチによる味への追求に興味はないし、かの地ではかの地に従えを信条としているので、供されるネタとか酒はその産地で味わうことが至高であると信じて疑わない。

このことは音楽に関しても敷衍できるので、ヨーロッパで生まれ育った演奏家のひくベートーヴェンと日本で生まれ教育をうけた演奏家のそれとでは、決定的にことなって当たり前だ。

たしかに音楽という芸術は意味を持たない音によって構築されるものだし、その音を再現できる技術とふさわしい楽器を有してさえいれば東洋人だろうが何ら負い目や引け目を感じる必要などないといえるだろう。ヨーロッパで活躍しているアジア人の音楽家は枚挙にいとまがない。

だが、たとえば日本に留学して鮨のとりことなりそのまま日本の名だたる老舗で修業をつんだアメリカ人の握る鮨を、あなたは虚心坦懐に先入観など絶無で味わうことができるだろうか?かりに不味く感じたらかれが日本人でないことが理由となるだろうし、逆に美味だったら「アメリカ人が握ったのに?!」とやはり人種がおどろきの源となるだろう。

日本人演奏家の弾くヨーロッパ古典音楽を、だからわたしはなるべく聴かないようにしている。











[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-15 11:34 | Comments(2)

戦闘の朝

今日はなんとか出社した。

もう有給休暇の残りが2日しかない、という現実と、今日休むと土曜・日曜をふくめて6日連続で家にいることとなり、このままズルズルと出社できない精神状態になるなぁ、という予感があったからだ。

なんかいも書いているように、わたしの朝は早い。加齢と不眠症の結果なのだが、平日休日にかかわりなくだいたい4時前後には覚醒する。真夏であればもう空は明るいからベッドから抜け出すのに躊躇はしないのだけれど、この季節まだ外は夜である。

東京の日の出が年間でいちばん遅いのは冬至の2週間ほどあとになるので、だいたい1月の1~2週目になる。つまりこれからますます暗い朝をむかえねばならないわけだ。

精神を病んでわかったことなのだが、目覚めたときに外が暗いというのはかなりのダメージがある。家を出るのもその流れで早いから(だいたい6時ころ)まだ暗いままだ。会社の終業時刻は17時45分なので、事務所を出るときにはもう充分に夜である。つまり夜に自宅を出て夜に帰宅するという、なんだか昼夜が逆転した生活をおくっているかの感覚にとらわれる。

科学的な、あるいは医学的な話しなどではまったくなく、この感覚はたいへん不健康だといわざるをえない。もともと夜が好きではないのと、自宅がいちばん落ち着くので目覚めたときにまだ暗いというのはそのことだけで会社を休む立派な条件となるのである。

今朝は目覚めてから起き上がるまで10分ほどの時間が必要だった。

わたしのなかの敵と闘っていたのである。いっときは劣勢だったが起き上がりさえすれば何とかなるという経験があるのでとにかく立ち上がったのだった。それでも今朝はつらかったね。ほんとうによく出社したものだと自賛したくなる。

普通のサラリーマンが当たり前にこなす日常すら、わたしにはたいへんな格闘の末に得られる褒美なのである。

だから人生がバラ色だなんて、わたしには思えない。








[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-11 15:57 | Comments(0)

精一杯

3日間、12/6・7・8と会社を休んで寝ている。

南木佳士ふうにいうなら、死なずにいるのが精一杯の日々である。

こういう悲惨な状況を壊滅し、扉を開くのはわたししかいない。…わかっている。

何かきっかけになることを待っているのだが、そう都合よく事件は起きない。

生きるということは、そんな退屈で冗長な現実を飲み込むことなのだ。



吐き気がする…








[PR]
# by hidyh3 | 2017-12-08 11:18 | Comments(0)

大岡裁きを、是非とも!

わたしが小学校低学年だったころ、父はかれの友人らといっしょにテレビのまえに車座になって相撲中継をみていた。


何回かわたしはその輪のなかに呼ばれて無理やり観させられたのだったが、まったく面白くなく、周囲で楽しんでいるオヤジたちが不思議でしかたなかった、いったいこれのこどが面白いのか?


当時のわたしの結論は、成長し大人になったらこういうものが面白くなるのだろう、ということであった。


酒が飲め、タバコが吸えるようになったら相撲というものが好きになるのだ、そう思っていた。いや、そう思うほかなかった。


あの当時の父の年齢をはるかにこえた今のわたしだが、やはり相撲はまったく面白くない。


それどころか、あんなものが「国技」と称され、土俵には女性が上ることができない。しきたりやしがらみにからめとられた時代錯誤にして滑稽な代物ではないか。


格闘技にもいろいろあるが、あれくらいスポーツ、アスリートという概念からとおいものはないだろう。力士がアスリートだなんて、笑い話しにもならない。そのくせ懸賞金は出るわ、贔屓のかたがた (「タニマチ」と呼ぶらしい) から接待は受けるわで、勘違いするバカも多いようである。


なにしろ時代錯誤の閉鎖された社会だから、その世界の取り決めや約束ごとも不合理のようである。


むかし銀座でアルバイトをしていたころ、浴衣姿の関取りたちをなんども目撃したが、渡り鳥がリーダーを先頭に隊列をなすのとひどく似ていた。


興味などまったくなかったからその群れのリーダーが誰なのかは判らなかったが、文字どおり肩で風をきるような感じで夜の銀座7丁目や8丁目あたりをのし歩いていた。わたしには見世ものの象やらゴリラの一群としか映らなかったが、あの目に見えぬヒエラルキーのかもしだす不快感はいまでも鮮明だ。


ひとを突き飛ばしたり張り倒したりするのが専門なのだから、先輩がおことばを垂れている最中に「ながらスマホ」していたら殴って当然だろう。ましてや同胞である。サラリーマンが会議中にスマホをいじっていたら懲戒をうけるに違いない。


そもそもが時代錯誤のあれは世界なのだから「喧嘩両成敗」という裁きで収めるのが道理ではないか?









[PR]
# by hidyh3 | 2017-11-30 14:22 | Comments(0)

行かなくていい街

よかったのか悪かったのか判らないが、わたしは築地で産まれ神田で育ち14歳から板橋に住んでいる。

いちおう江戸っ子なのだが、2020年にむけて東京におびただしいひとたちが来ているし、さらに加速していくと思うので地元民からアドバイスを。

東京でぜったいに行ってはいけない街をご紹介する。

渋谷、新宿、赤坂、六本木。

理由はひとつ。街に品格がないのに妙なプライドがあるという、まぁ面倒で猥雑な場末である。生粋の江戸っ子がいうんだから本当だ。

では何処へいけばいいのか。

銀座、神田、新橋、本郷、丸の内である。

この街には地方では味わえない雰囲気がある。

いなせ、っていうやつだ。







[PR]
# by hidyh3 | 2017-11-23 21:25 | Comments(2)

ほんものの美女のアイコンタクト

美しい女性はかなりおおい。

だが在世中で、しかも世界的に名が知れるほど才能に恵まれた美女となると、そうとう絞り込まれる。つまりモデルとか女優という「見てくれ」が美しい女性まで数えあげたら裾野がひろすぎるのである。

そういう厳しい条件をクリアした、かず少ない超美女にアリス=沙良・オットがいる。



f0200225_19585368.jpg



彼女の存在をわたしが知ったのは数年前の日曜日早朝。NHK・BSで放送されていたN響の演奏会であった。

曲目は彼女お得意のグリーグの協奏曲。

彼女を見たとたん、もう曲なんてどうでもよくなってしまった。

神さまは時々こういういたずらをする。絶世の美女にピアノの才能まであたえるなんて、ずるい。けれど、彼女を見ながらピアノコンチェルトを聴けるわたしは、だから神に感謝しなければならない。

カデンツァが終わるときなど、彼女がコンサート・マスターに目配りする瞬間は、もはや演奏を超えてしまっている。

美しすぎる演奏家というのも作曲家にしてみたら迷惑だよね。自分の作品より目立ってしまうのだから。







[PR]
# by hidyh3 | 2017-11-23 11:12 | Comments(0)

どっちを聴いてるの?

不思議なことにレコードとかCDといった録音されたもので音楽を聴くときには、ついぞそういう思いにとられることはないのだが、演奏会にいき素晴らしい体験をすると、

 「おれは今、曲に感動したのか、それとも演奏に感動したのか、いったいどっちだったんだ?」

ほぼ100%そう思う。

常識的にいうなら、知悉している曲で感動を呼び起こしてくれたのだから、そりゃ演奏がよかったからだろう、そうなるよね。

だがそういう意見は音楽に苦労してこなかったお気楽なひとの皮相な感想なのであって、現実はもうすこし込み入っているのである。




[PR]
# by hidyh3 | 2017-11-23 05:40 | Comments(0)

芝浦の電気屋

ことしの春、4ヵ月の休職中に日経新聞をとるのをやめた。


ひとつには読むほどの気力がなく (会社に行かないものにとって日経新聞なんて必要ない) 、日に日にたまっていく新聞の山に辟易したこと。


もうひとつはインターネットの無料会員でもその気になれば必要にして充分な情報がえられることである。そもそもわたしは新聞を読むという行為がむかしから苦手で、だから宅配されていたころから土曜と日曜のぶんは積読(つんどく)だった。


わたしの出社は早いので、始業時間にはその日の朝刊の内容はほぼインターネット配信のもので満たされている。ネット配信のさらにいいところは昼版と夕版もタイムリーに届くので、いまのように終日机のパソコンを眺める身にはそのときどきの世の流れを知ることができるのである。


きょう昼飯を食べ終えて配信をみると、東芝がサザエさんとTBSの日曜9時のドラマのスポンサーを降りる、とあった。想定どおりだが、わたしの世代のひとには少なからずひとつの時代の終わりを象徴しているといえるだろう。


かつてサザエさんは番組の始まるときに「この番組は東芝がおおくりいたします」とサザエさん自身が伝えていたし、TBSのほうは「東芝日曜劇場」というそのままズバリのタイトルで、昭和を代表するあまたの名テレビドラマがここから誕生したものだった。


さて「東芝」というのは「東京芝浦電気」が略されたものだということを今はどれくらいの人が知っているのだろう?


白熱電球は東京芝浦電気のシンボルであった。高度経済成長のころ、庶民の生活レベルをあげるとともに日本という国をけん引してきた名門であった。ついでにいっておくと東芝は三井グループで、ライバルである三菱の中核をなす三菱電機に対抗していたのである。かつて三井グループの幹事会社を営業として担当していたので三井と三菱に関しては徹底的に勉強した。三菱重工の相手は、というと知らないひとは「?!」となると思うが、跡地がすっかりさま変わりしたIHIである。



以前にも書いたが、日本はいまさまざまな部分でほころびを見せている。


旬を過ぎ、自然治癒する体力ももはやない。妙なたとえだが、明治維新からこんにちまでの150年間に一流アスリートをめざして猛練習に明け暮れ、身もこころもボロボロになってしまったように思われる。


たとえば日本が目標にしてきたヨーロッパは「努力は美徳だ」というセンスをもともと持っていないから150年前もいまもたいして変わっていないし、無理に変わろうなどと露ほども考えていない。したがって結果としてサステナブルな社会なのである。


これは国民性であり文化だからどうしようもない。


昨今はやりの「働き方改革」の根もそこにある。したがって、日本人の働きかたは変わらないし変えられないだろう。









[PR]
# by hidyh3 | 2017-11-22 14:24 | Comments(0)

そして誰もいなくなった

勝安房守とはまったく逆で、このところわたしの周囲からどんどんひとが遠ざかっていく。


理由はハッキリしていて、わたしの暴言とか理由なき言いがかりのためである。じぶんの感情がおさえられなくなってきているのだ。


かつてのわたしは、どちらかといえばおとなしく言いたいことがあってもグッとこらえるタイプの人間だったのに、最近は必要以上に話しをデフォルメし、相手が不愉快になるだろう表現をえらんでいい放つ確信犯である。


・・・どうしてこんなふうになってしまったのだろう。


確信犯とはいっても、それは表現するさいのコトバ選びに属するもので、根本にあるのは自身の感情をおさえられないわけだから「感情失禁」と評してもいいと思う。「感情失禁」というのは立派な老化現象だから、つまりは醜く老いつつある、という見たくない現実なわけだ。


わたしのこころを仔細に調べるとあらわになるのは「劣等感」であり、そのヴァリエイションとしての「傲慢さ」であり、「自己中心的発想」と「わがまま」と、そして「いい恰好しい」の「自信家」なのである。


別にことさら悪ぶっているわけではない(そんなことをして何の意味がある?)。


うえにあげた感情とか資質というものは量の多少に差はあるだろうが、おそらくたいていのひとも有しているものと思う。ただわたしのばあいに特徴的なのは通常値がひどく高い、あるいは程度が深いということで、ふつうに振る舞っているつもりがじつは常軌を逸しているということの連続なのである。


これはたいへん恐ろしいことで、犯罪者に共通する心理なのではあるまいか・・・


こんな厄介者に「感情失禁」のうえ「認知症」がくわわったら、もはやそこにいるのは人間ではない。


う~ん、家族にこれ以上の迷惑はかけたくないよなぁ。










[PR]
# by hidyh3 | 2017-11-15 12:36 | Comments(2)

年齢をかさねるに従って、あけてこなかった扉があまりに多いことに気づき、今ではそれらの扉をひたすら開くことが、わたしの生きることの証しです。               C'est la vie !!
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28